大判例

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大阪地方裁判所 昭和37年(ワ)1418号 判決

原告 国

訴訟代理人 川村俊雄 外一名

被告 東邦油脂株式会社 外一名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事  実 〈省略〉

理由

(事故の発生)

訴外清水久民が、昭和三一年一二月一日、午後四時二〇分頃、自動三輪車(大六せ六七二五号)を運転し、泉大津市高津町一一五番地先国道二六号線道路上において、対向して来た訴外黒田三男の運転する軽自動車(スクーター)にこれを衝突させたことは当事者間に争がない。そして成立に争のない甲第一乃至四号証と証人黒田三男の証言によれば、訴外黒田は、同日以後昭和三三年六月二八日まで継続治療を要する左膝部挫滅創(開放性骨折)等の傷害を負つたことが認められ、これに反する証拠はない。

(財産上の損害の発生)

成立に争のない甲第一乃至四号証、同第九号証と証人黒田三男の証言によると、訴外黒田は、右傷害治療のため昭和三一年一二月一日から同三二年三月二一日迄高田外科診療所に入院し(この点は当事者に争ない)その間治療費として八九、七七〇円を要し、右入院で治療に至らず、その後昭和三二年三月二二日から同年一〇月三一日迄聖母病院に通院並びに入院治療を受け、その費用一一七、四五〇円を要し、その間及びその後同年一〇月一日から一一月三〇日迄田中整骨院に通院治療を受けその費用四、五〇〇円を要し、更にその後昭和三二年一二月一六日から同三三年六月二八日迄大阪市立大学医学部附属病院に入院及び通院治療を受けてその費用九九、〇五八円を要し、その他高田外科診療所入院中の看護人附添費及び食費として七八、〇二〇円の支出を要したことが認められ他にこれに反する証拠はない。

また、成立に争のない甲第五号証の二と証人黒田三男の証言によると、同人の本件事故当時の平均賃金は一日六三六円二六銭であつたところ、本件事故により、昭和三一年一二月二日から少くとも同三三年五月一四日迄五二九日間は就労し得なかつたことによりその間三三六、五八一円相当の賃金としての得べかりし利益を喪失したことが認められ、他にこれに反する証拠はない。

よつて、訴外黒田は、前記治療費等の合計三八九、七九八円と得べかりし利益の喪失三三六、五八一円との合計(七二六、三七九円)において、原告主張の六六二、〇五九円を上廻る財産上の損害を蒙つたものというべきである。

(被告会社の賠償責任の有無)

訴外清水が被告会社の被用者であつることは当事者間に争なくく、成立に争のない甲第一一号証の一、(清水久民の供述調書)によると、本件事故車は被告会社の保有車であり、且つ本件事故は、被告会社の用務のための運行中のものであることが認められ他にこれに反する証拠はないから、自動車損害賠償保障法第三条により一応被告は訴外黒田に対し前記損害を賠償する義務があるというべきところ、被告は、本件事故につき訴外清水には過失がなく、第三者たる泥酔者の過失であり且つ自動車の構造上の欠陥又は機能の障害がなかつたと主張するので判断するに、被告はこれらの点について何ら立証を尽さず、かえつて成立に争のない甲第一〇号証、同第二号証の一、同第一三号証によつても被告主張の様な自転車の運転者(訴外呉村聖赫と認められる)が訴外清水の鳴らしたクラクションに気づいて追越しを確認していたことはないことが認められ、また右訴外呉村が泥酔していたとの事実もこれを認めるに足る証拠はない。そして、前記証拠によれば、訴外清水は、単にクラクションを一回吹鳴したのみで右訴外呉村が自己車が追越しにかかることを確認し得たかどうかを確認することなく漫然追越の動作に出たものと認められるので被告の訴外清水に過失がなく、訴外泥酔者に過失があるとの主張は採用できない。また、自動車に構造上の欠陥等がなかつたとの点については何らの立証がない。

(原告による労災保険金の支払等)

証人黒田三男、同畑野光次の証言と、成立に争のない甲第五号証の一、二、同第六号証の一、二、同第七及び九号証及び同じく乙第三号証とによると、訴外黒田は、訴外畑野木材工業株式会社の従業員であるところ、原告と同訴外会社間には、労災保険法による労働者災害補償保険関係が成立しているところ、本件事故は訴外黒田が同訴外会社の業務執行中のものであつたため、原告は労災保険法の定めに従い、訴外黒田に対し、昭和三四年九月四日までに金五八五、九三八円(その日時及給付金額については弁論の全趣旨に徴し被告はこれを明かに争わないものと認めた)の保険給付を行つたことが認められ、他にこれに反する証拠はない。

(被告主張の示談の成否及これと原告の求償権との関係)

右保険給付の原因となつた事故は前記認定のとおり、訴外清水の行為によつて生じたものであるから労災保険法第二〇条第一項の規定により、原告は右保険給付の価額の限度において訴外黒田が訴外清水及び被告に対して有する損害賠償請求権を取得するものであるところ、被告は、訴外黒田と被告及び訴外清水間に示談が成立していると主張するので判断するに、成立に争のない乙第一号証、同第二号証の一、二、証人西本久雄の証言により真正に成立したと認める同第三号証と証人黒田三男、同畑野光次、同西本久雄の証言とを綜合すると、昭和三二年一月二五日、訴外黒田と、被告及び訴外清水間に本件事故に関し、被告及び訴外清水がスクーターの修理費用五〇、四八〇円、訴外黒田が高田外科診療所に入院中の費用(治療費及び附添人の費用及び食費本人及附添人一カ月一万円の割合によるものを含む)全額と慰謝料名儀による金三〇、〇〇〇円を支払う旨の示談契約が成立したことが認められる。

原告は、右契約は単に訴外黒田と訴外清水との間のみの契約であり、被告は関係ないと抗争し、乙第一号証(示談書)の記載のみからはその様にも見られるけれども、前記証拠を綜合すると、右示談書は、訴外清水の刑事々件の情状資料として提出するためにも作成されたため、清水個人の責任を中心として記載されたものと認められ、また、右示談による金員はすべて被告会社が負担していること、また、本件示談の交渉は主として被告会社の代理人西本久雄と訴外黒田の代理人であり訴外畑野木材工業株式会社の取締役でもある畑野光次との間に行われていることなどが認められ、右示談書の形式如何に拘らず本件示談契約は被告と訴外黒田間にも成立したものと認められるところである。

そして、労災保険法第二〇条第二項の適用上、補償を受けるべき被災労働者(本件では訴外黒田)が第三者(本件では被告及び訴外清水)から損害賠償を受け、又は第三者の負担する損害賠償義務を免除したときは、その限度において損害賠償請求権は消滅するのであるから、政府(原告)がその後保険給付をしても、その請求額がなお存することを前提とする同条一項による法定代位権の発生する余地がなく、第三者に対する求償権はこれを取得する由のないものである(昭和三八年六月四日、最高裁判所第三小法廷判決)から、前記示談契約が訴外黒田において右示談書に盛られたものの他はこれを放棄する意思を有していたものかどうかにつき判断しなければならない。

原告は、たとえ被災労働者が右損害賠償請求権を放棄したとしてもこれをもつて国に対抗し得ないと主張するが、その所論は前記最高裁判所の判旨に照らし採用し得ないところである。然し乍ら右最高裁判所の判例理論に従えば、被災労働者は加害者に対し損害賠償請求権を免除すると、その限度において政府は保険給付をする義務を免れることとなり、被災労働者はその限度において保険給付請求権も喪失し、若し政府が保険給付した場合は被災労働者に対し給付相当額につき不当利得返還請求権を有するに至ることとなるのであろうから、示談契約に当つて被災労働者がその真意から右の様な効果までをも認識して損害賠償請求権を放棄する意思表示をなしたかどうかの認定は前記最高裁判所の判決も指摘するとおり厳格にこれを行わなければならないところである。

本件においては先ず乙第一号証(示談書)の記載によると「当事者双方協議の結果左記条件を以て一切円満示談解決する事を約しました。仍て今後本件に関しては如何なる事情が生じても決して異議を申立てない」云々との記載があつて、爾余の請求を放棄した如くにも読めるけれども、前記認定の様に本件示談書は、刑事事件の資料として提出するためにも作成されたものであるところ、証人畑野光次の証言と右乙第一号証の記載の体裁自体から認められる様に、右示談書は、岸和田警察署に備付けてある用紙を利用して作成したものでその大部分が不動文字であり、右の部分も不動文字で印刷されていて、「左記条件」のみを書込む様になつているものであるから、所謂例文に属し、当事者間においても明かにこれに従う意思のあつたことが他に立証されない限り、右の示談書の文言自体から直ちに爾余の請求権の放棄があつたと認めることは相当でない。

然し乍ら、本件においては、前記乙第一号証、同第二号証の一、同第三、四号証と、証人黒田三男、同畑野光次、同西本久雄の証言とを綜合すると、右契約成立当時においては、右高田外科診療所の院長の診断により、訴外黒田の傷害は三カ月位同病院に入院治療することで完全治癒して歩行もでき働ける様になることが当事者間では疑をさしはさむ余地のない位確実なことと考えられていたので、本件傷害による財産上の損害としては、右高田外科診療所関係の出費と、同院への入院三カ月位の間の得べかりし給料相当額とに一応限定され得ることが前提となつて本件示談が進められたものであること、従つて、右治療費の範囲を高田外科関係に限定したのは、これを負担して貰えばほとんどその全部を負担して貰うこととなるので他にこれを生じたとしてもそれは些少の金額で済むのでこれは被害者において自己負担とすること、また、休業補償についても右三カ月位の入院期間を通じ本人の食費の一部(一カ月五、〇〇〇円)をも負担して貰うことと、慰謝料名儀で金三〇、〇〇〇円(それは前記認定の訴外黒田の当時の平均賃金一日金六三六円二六銭を基準として労災保険法による休業補償六〇%を適用すればほぼ三カ月分に相当する)の支払を受けることで一応満足して、その時においては爾余の請求権はこれを放棄したものと認めることができる。証人黒田三男の証言中には自分は労災保険から貰うことを考えていたとの供述があるが、右はその余の証人の証言に照らし、主観的に一応そう考えていたかも知れないが、これをはつきりと留保する意思を示したことは認められず、右慰謝料名儀の金額がほぼ休業補償費に匹敵することを考えれば、同人も右示談契約の当時においては一応これをもつて満足していたものと認められる。よつて、本件示談契約成立の時においては、当事者間においては損害の範囲を前記高田外科診療所関係の費用及びその入院期間の休業による損失に止まるものとの前提に立つて、その範囲に確定し、かつこれにつき前記の様な形で補償されることによつて解決し、その余の賠償はこれを免除したものと解し得られるところである。右契約の当時本件の結果にみられる如き実損害が増大することが予想されたのであれば、訴外黒田においてもその顛補を労災保険給付に求め、爾余の賠償請求権を放棄するという様なことは勿論しなかつたと考えられるけれども、契約当時においては、その様なことは予想されず、損害は前記範囲に止るものと予想されたのであるから、右示談書に記載されない損害についての賠償請求権はこれを放棄したと認めるのを相当とする。

(結論)

そして、右示談契約に従い、被告は、訴外黒田に対し、高田外科関係の費用金一六七、七九〇円を支払つたことは原告の自認するところであり、更に成立に争のない甲第九号証と証人黒田三男の証言とによつて慰謝料名儀の三〇、〇〇〇円も支払済であることが認められ、右示談の成立及び履行により損害賠償請求権が消滅したのは、原告が訴外黒田に保険給付をするより以前のことであることは原告の明かに争わないところであるから、原告は、右保険給付をしたことによつても、被告に対する求償権はこれを取得するに由なく、結局原告の請求は理由なく全部排斥を免れない。よつて、訴訟費用につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 潮久郎)

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