大判例

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東京地方裁判所 昭和44年(ワ)2217号 判決

原告

石田富士子

原告

石田貴裕

右法定代理人親権者母

石田富士子

右代理人

榊原卓郎

右復代理人

宮島崇行

被告

弘中秀典

右代理人

高田利廣

右復代理人

小海正雄

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

原告ら訴訟代理人は、「被告は原告石田富士子に対し金七九四万一七〇三円、原告石田貴裕に対し金一四二万三四〇六円および右各金員に対する昭和四四年三月一三日から支払ずみまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決ならびに仮執行の宣言を求め、請求原因として、

一、被告は肩書住所地において医院を経営している開業医である。

二、訴外石田信雄は、大正一五年一〇月一〇日生れの普通の健康体を有する男子であつたが、昭和四三年九月六日被告に対し痔疾治療を依頼し、被告はこれを承諾した。よつて両者間に痔疾治療契約(以下本件診療契約という。)が締結された。

三、同日被告は前項の契約に基づき信雄に対し痔瘻切開筋切離手術を施した。

四、信雄は右手術終了後心機能不全による急性水腫の症状を生じ、同日午後三時一五分東京都荒川区西尾久の東京女子医大第二病院において死亡するに至つた。

五、前項の結果は被告の本件手術に起因する。

六、信雄の死亡により原告らに発生した被告に対する損害賠償請求権はつぎのとおりである。

(一)  亡信雄は死亡当時電気配線工事の請負および金物の小売店経営を行い、これにより年間二一四万一九四二円の利益を得ていた。当時同人の生活費は年間二四万円であつた。

よつて同人の平均就労可能年数を二二年と見、中間利息を差引くと、同人の得べかりし利益は一九九万五一一一円である。同人は死亡によりこれを喪失したので、被告に対してその損害賠償請求権を取得した。

(二)  原告らは亡信雄の相続人の全部である。よつて原告富士子は配偶者として、同貴裕は子として相続分に応じ、亡信雄の被告に対する右賠償請求権を相続した。

(三)  原告富士子は亡信雄の葬儀のため三〇万円を支出し、同額の損害を受けた。

(四)  原告富士子は亡信雄の妻であり、同貴裕は長男であるが、信雄の死亡によりそれぞれ精神的苦痛を受けた。よつてその慰藉料としては原告らにつき各一〇〇万円が相当である。

七、仮りに右請求が認められないとしても、被告には本件手術の際つぎに述べる過失があり、これに因り信雄を死亡させるに至つたものである。

(一)  被告は、医師として、患者に腰椎麻酔を施すに際し、麻酔ショックの発生を防止するため予め患者を問診し、心電図検査・血液ガスの微量分析・心理検査を行い、患者が麻酔に耐えうる体質であるかどうか充分に調査すべきであつたのに、これを怠つたため、同人に麻酔ショックによる呼吸困難と血圧下降を生じさせた。

(二)  被告は、呼吸困難血圧下降に陥つた信雄に対し、医師として当然要求される義務である気管に直接挿管する酸素吸入法・セジラニッドなどの強心剤や血圧昇圧剤等の投入・血圧上昇のため患者の両足を上げる処置等を採らず、単に破損した酸素ポンプを使用して酸素吸入を試みたに止まつたため、信雄に血圧下降・心臓機能不全の合併症状を生じさせた。

(三)  被告は、血圧下降を伴う心臓機能不全を生じている信雄に対し、医師としての注意義務を怠り、心臓蘇生術を用いず、救急車で一〇分以上要する東京女子医大第二病院へ輸送させてさらに病状を悪化させ、よつて信雄を心臓機能不全と肺水腫の合併症状により死亡させるに至つた。

と述べ、被告の反対主張に対しては、これを否認し、

立証〈略〉。

被告訴訟代理人は請求原因に対する答弁として、「第一項は認める。第二項中本件診療契約成立の点は争い、亡信雄の生年月日等は不知。その余は認める。第三、第四項は認める。第五項は否認する。第六項中原告らが亡信雄の相続人であることは認め、その余は不知。第七項は否認する。」と述べ、被告主張として、

一、信雄は国民健康保険法上の被保険者であり、被告は同法上の療養取扱機関であるから、本件診療契約の相手方は被告ではなく保険者たる訴外荒川区である。

二、被告は、亡信雄に対する本件診療において、医師として業務上必要とされる注意義務を果たしたものであつて、信雄の死亡は不可抗力に基づくものである。

と述べ、立証〈略〉。

理由

一、まず、債権契約の存在について判断する。

亡信雄が被告に対し本件診療の申込をし、被告がこれを承諾した事実は当事者間に争いがない。これによつて信雄と被告の間には信雄の痔疾治療を目的とする準委任契約が成立したものというべきである。

被告は、本件診療契約の相手方は被告でなく、訴外荒川区である、と主張する。しかし、国民健康保険法上の被保険者は、自己の意思で療養取扱機関を自由に選択できること(同法第三六条第三項)、療養を受けた被保険者は療養取扱機関に対し直接一部負担金の支払義務を負うこと(同法第四二条第一項)、療養取扱機関は所在地の都道府県知事に申し出ることにより他の都道府県区域内の被保険者に対しても療養をする義務を負うこと(同法第三七条第五項)等、同法各条の法意と保険診療開始後、当該療養取扱機関において治療に従事する医師が保険診療における療養の給付では支給することのできない薬剤ないし治療材料を使用する必要を認めた場合、いわゆる自由診療への切替えが行われうること等を併せ考えると、保険診療において保険者と療養取扱機関との間にどのような公法上の権利義務関係が生ずるかとはかかわりなく、保険診療の被保険者である患者と療養取扱機関との間には、診療に関する合意によつて直接診療契約が締結されると見るべきものであつて、それは、被保険者が別途保険者に対しても何らか公法上の法律関係に立つことと相容れないものではない。そしてこの診療契約は、診療を目的とする準委任契約と解されるから本件診療契約により、被告は亡信雄に対し痔疾治療をなす債務を負つていたことになる。

二、そこで債務不履行の点につき判断する。

亡信雄が被告の下で痔疾手術を受けた直後、心機能不全による急性肺水腫を生じ、死亡するに至つたことは当事者間に争いがない。よつて被告の本件手術と信雄の死亡との間に因果関係が存するかどうかにつき考察する。

原告らは、信雄の死亡は腰椎麻酔にもとづく麻酔ショックが原因であると主張するが、甲第一号証の「ショック」との記載は、鑑定証人船尾忠孝の証言に照らして、原告の右主張に対しては心証を惹くに十分でなく、他に右主張を証するに足りる証拠はない。しかし〈証拠〉によれば、信雄は手術終了後一五分ないし三〇分を経過して突然呼吸困難を訴え、その後約一時間三〇分以内に死亡していることが認められ結局本件手術が信雄の死亡につき直接的にせよ間接的にせよ何らかに原因となつていることは疑いを容れる余地がない。鑑定証人船尾忠孝の供述によると、本件手術による侵襲が直接心機能不全を起すことはないというのであるが、それは狭義の手術をいうものと解せられ、右供述自体腰椎麻酔と心機能不全との関係の可能性自体は否定しておらず、ここで問題にしているのは、そういう麻酔処置なども含めた意味での広義の手術と死亡との関係なのであるから、右供述は右心証を左右するものではない。よつて本件手術と信雄の死亡との間には相当因果関係があるというべきである。そして信雄の死亡により本件診療を目的とする準委任契約は履行不能となつたことになる。

三、つぎに損害額に関する判断を一応措き、抗弁につき判断する。

〈証拠〉によれば、本件手術は患者の腰椎にベルカミンSという麻酔注射を打ち、患部を切開し、不良患部を切除する程度のものであつたことが認められる。このような手術を行う場合医師としては患者の健康が手術に耐えられる程度にあるかどうか確認しておく義務がある。しかし信雄が普通の健康体であつたことは原告らの自認するところであり、被告本人尋問の結果によれば、被告は信雄とは近隣の関係から面識があり同人の健康状態を知つていたことが認められるから、本件の場合とりたてて右のような点を確認するまでの必要はなかつたと考えられる。〈証拠〉によれば、解剖所見上、中等度の気管支喘息とか中等度の心臓肥大とかが見られるが、これらは右の判断を左右するものでなく、むしろ解剖所見では「いわゆる異常体質といわれているものの存在は認められない」とされていることに着目すべきであろう。また、原告らは、麻酔ショック防止のため、予め患者を問診し、心電図検査等の諸テストを行うべきであると主張するが、前判示のとおり、信雄の死亡が麻酔ショックに起因するとの証明自体なされていないのみならず、鑑定証人船尾忠孝の証言によれば、そのような検査をしたからといつて必ずしも麻酔ショックを起すか否かを事前に知りえたとは限らないものと認められるので、右主張は失当である。

〈証拠〉によれば、信雄は手術が終了して一〇ないし二〇分後急激に呼吸困難の状態に陥つたことが認められ、かかる場合医師としては酸素吸入を行い、強心剤・血圧昇圧剤の投入をする等、救急処置を行う義務があるが、〈証拠〉によれば、被告は右発作の直後、ショック防止剤のコートン一CC、同テカドロン0.5CC、昇圧剤ボスミン0.5CC、呼吸促進剤テラプチック三CC、強心剤ビタカン一CC、強心剤兼昇圧剤ノルアドレナリン0.5CC、同ネオシネシン一CCを注射し、これと併行して閉鎖循環式全身麻酔器(酸素吸入にも使用できるもの)により、マスク吸入の方法で人工呼吸を行つたこと、頭部に血液が流れるよう信雄の下半身を高位置に挙げるいわゆるトレンテレンブルク体位を取らせたことが認められ、被告としては医師に要求される救急の処置をなす義務を果したものといえる。原告らは被告の使用していた全身麻酔器のバッグ(手で加圧して酸素を送り出す装置)が古くなつて穴があいており、絆創膏でつぎをしている状態であつたと主張し、原告富士子本人の供述中にもこれに副う部分があるが、〈証拠〉によれば、そのような事実は認められず、むしろ、被告が手術時間を測定する目安として前記麻酔器のキャニスターに絆創膏を一〇個貼りつけておき、三〇分経過毎に一枚宛はがしていくのを通例としていたことが認められるので、当時石田富士子はこれを見誤つたものと推測される。よつて原告らの右主張は失当である。また原告らはセジラニッドを使用する義務があつたと主張するが、被告本人尋問の結果によれば、被告は発作後信雄にアドレナリン・ホスミンを注射しており、これにつづいてセジラニッドを使用すると心室細動症状を起し、心動停止に至るおそれがあつたので、その使用をひかえたことが認められるので、右主張も妥当でない。さらに、原告らは、かかる場合の酸素吸入の方法としては、マスク吸入によらず直接気管に挿管する方法で吸入させるべきであると主張するが、被告本人尋問の結果によれば、酸素吸入を施している間信雄は酸素を吸引していた事実が認められるから、原告ら主張の方法によらなくとも被告の採つたマスク式吸入でも同様の効果しかもたらさなかつたものと考えられる。よつて右主張も失当である。

ところで、乙第二号証中九月一二日付被告本人供述調書によれば被告は、発作後約一〇分間人工呼吸、注射等の処置をとつていたが、信雄が次第に意識を失い被告の呼びかけにも返答をしなくなつたことが認められる。かかる場合医師としては、開胸し心マッサージないし電気ショック等の処置によつて心動停止を防止すべき義務がある。しかし〈証拠〉によれば、被告は、午後二時頃(発作後約一五分経過)救急車を呼び信雄を東京女子医大第二病院へ搬送させ、同院の坪井医師らによつて割胸して心マッサージや電気ショック等の処置がなされた事実が認められる。原告らは呼吸困難に陥つた患者を車で搬送することはかえつて病状を悪化させたもので、誤つた処置であつたと主張するが前記病院が被告医院から救急車で約一〇分位の距離にあることは原告らの自認するところであり、被告本人尋問の結果によれば、前記病院は心臓外科の専門病院であること、被告医院には電気ショック法を行う設備がなかつたこと、搬送中も被告は酸素吸入をつづけていたことが認められる。よつて被告としては医師として果たすべき義務を充分につくしていたということができる。

以上のべたとおり被告には本件診療契約の履行に際し、終始医師として果たすべき注意義務をつくしており、信雄の死亡につき無過失であつたということができる。したがつて、本件診療契約債務の不履行を前提とする原告らの請求は、その余の判断に及ぶまでもなく失当である。

四、原告らは、また、被告の診療上の過失を主張してその不法行為責任を云々するけれども、被告主張に関する右判示に明らかなように、被告には過失は認められないから、右原告ら主張も理由がない。

亡信雄の死は、遺族である原告らにとつてはまことにいたましい事実である。「あの痔の手術を受けなかつたら・・・・」と悔む原告らの心情は、当裁判所も十分理解するのであるけれども、その痔の手術に由来する信雄の死亡を避止しえなかつたことに被告の過失があると見た原告らの主張には誤解があつたと思われること右に判示したとおりなのである。それを越えて信雄の死亡を避止しえたものと主張することは、本件の事実関係においては、現在の医学そのものの至らなさからの結果を被告個人に責めることとなろう。医学は決して万能ではなく、過失責任法制のもとでは医師の治療に由来する賠償責任の追及にはおのずから限界がある。原告らがこれを理解し、被告を責めることをあきらめて、故人の冥福を祈る気持になることを、当裁判所としては期待するものである。

五、右の次第で、原告らの請求はいずれも失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担については民事訴訟法第八九条を適用し、主文のとおり判決する。 (倉田卓次)

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