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東京地方裁判所 昭和60年(合わ)182号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

一本件公訴事実は、「被告人は、金員窃取の目的で、昭和六〇年四月一一日午前三時三〇分ころ、東京都板橋区〈以下省略〉○△大学△△寮○棟○○○号の地上約1.53メートルの窓枠に手をかけてよじ登り同所から室内に侵入した上、同室内において、甲野花子(当一八年)所有の現金約三万七、〇〇〇円を窃取し、更に金員を物色中、同日午前三時四〇分ころ、用便のため目を覚した右甲野に発見されるや、逮捕を免れる目的をもつて、いきなり、同女の顔面を手拳で一回殴打する暴行を加え、ついで右暴行により、同女が極度に畏怖しているのに乗じ、強いて同女を姦淫しようと決意し、その場で同女の口を手で塞ぎ、肩部付近を掴んで仰向けに押し倒すなどしてその反抗を抑圧し、強いて同女を姦淫しようとしたが、同女に騒がれ抵抗されたため、その目的を遂げなかつたものである。」というのであり、右公訴事実にほぼ相応する被害の外形的事実が存在したことは本件各証拠上明らかであつて、本件の争点は、被告人において本件公判の当初から強く否認するとおり、専ら、右の犯人が被告人であるかどうかにあるものである。

二ところで、まず、本件各証拠によれば、本件の特質ともいうべき次の諸事実は明白であつて、被告人に不利な事情を主として供述する関係捜査官さえも各証言においてこの点は肯定するところである。即ち、(1)本件では、その犯人は、前記の被害者に悲鳴をあげられるなど騒がれたため、あわてて侵入口の窓から逃走した際、前記寮室内に侵入した時に履いていた使い古された26.5EEEサイズの革製紺色デッキシューズ一足(昭和六〇年押第一二七二号の1。以下、「本件デッキシューズ」という。)をその場に遺留し、また、右寮の敷地内において裸足で逃げた際に地面を踏みつけて印したと推認される素足痕数個(そのうちの最も鮮明なものの石膏は同押号の2。以下、「本件素足痕石膏」という。)を残してはいるものの、他にこれといつた手がかりはなく、とりわけ、本件被害者は強度の近視で右被害当時コンタクトレンズをはずしていた上、右寮室内は消灯されたままの暗い状態にあつたため、犯人の人相等の識別は全くできず、他の目撃者等も皆無であつたこと、(2)本件犯行の後、約一か月半経過し本件が所轄の警視庁板橋警察署でいわゆる迷宮入りした昭和六〇年五月二八日、被告人は別件の窃盗被疑事件により逮捕され、同署の警察官(以下、単に警察官という。)の取調べを受けたが、警察官は、被告人がたまたま前記の寮のごく近いところに居住し、本件デッキシューズ等の大きさから推定される犯人の身長とほぼ適合するなどしたため、被告人をあるいは本件の犯人ではないかと疑い、いわゆる見込捜査を開始し、その一環として、同年六月二九日本件デッキシューズについて警察犬による臭気選別を実施したこと、(3)右臭気選別は、警視庁刑事部鑑識課に所属する専門の指導手に依嘱され、右指導手において二頭の警察犬を使用して行つたものであるところ、右選別の方法は、ビニール袋中に保管されていた原臭物品である本件デッキシューズからその臭いを移し付着させた移行臭白布を右二頭の犬に嗅がせた上、警察官四名及び勾留中の被告人の計五名の体臭の付着した各靴下からの移行臭白布五点を物品選別台上に乗せ、置き方を変えて、三回ずつ、右各犬に選ばせるというのであり、その結果、右各犬はその都度計六回いずれも被告人の靴下からの移行臭白布を口にくわえて右指導手の許に持参したこと、(4)かくて、警察官は被告人を本件の犯人である旨確信に近い嫌疑を抱き、さらに、被告人の妻から、本件被疑事実など知らせずに事情聴取した末、本件デッキシューズが被告人の数多い持ち靴の一つに似ている旨の供述を得るに及んで、同年七月一七日前記別件の窃盗(勾留中)のほか二件のいわゆる余罪たる窃盗の公判期日において、被告人が執行猶予付の懲役刑の判決を言い渡され身柄を釈放されると、その直後に本件被疑事実により即日被告人を逮捕し、右別件に引き続き板橋警察署留置場に身柄を拘束したこと、(5)そして、右逮捕以来約半月(別件窃盗による逮捕から数えると二か月間余り。)の被告人の身柄拘束の後、警察官は、前記臭気選別の結果を得たに過ぎないのに、これを秘し、あたかも本件デッキシューズから被告人の分泌物そのものが検出されたかのような嘘をも申し向け、右逮捕以来終始否認し続けていた被告人をして初めて自白させ、その後の自白調書及び上申書(以下、これらを「自白調書等」という。)の作成の際にも、随時、警察官自ら「被告人に水を向ける。」と表現する誘導を交えた取調べを行つてきたこと、(6)右自白後、被告人は、本件犯行自体は全面的に認める供述をしながら、警察官が本件につき知り得ていない新規の事実は何一つ言えず、いわゆる秘密の暴露に属する事項の告知はないばかりか、反省、悔悟等の言辞を述べ続ける一方で、本件デッキシューズの入手先についてだけ、当初は二回にわたり他からこれを窃取した旨供述し、警察官がその各裏付捜査をすると、いずれもそのような被害事実のなかつたことが判明し、さらに警察官に右入手先を追及されると、最終的には本件の約一年前に東京都台東区上野の通称「アメ横」所在の大きな靴店で買つてきた旨供述し、警察官が同店につき捜査を尽しても本件デッキシューズと被告人とを結びつけうるような裏付けなど全く得られずに現在に至つていること、以上の諸事実が認められるのである。るる述べたが、これを要するに、本件においては、捜査官側は、確たる根拠など全く存しない憶測に基づく見込捜査の一環として行つた警察犬による臭気選別の結果を過大視し、これをあたかも指紋の一致のように取り扱つて、被告人を本件の犯人と決めつけ、折角、本件デッキシューズ及び本件素足痕石膏という貴重にして重要な物証がありながら、捜査段階ではこれらと被告人との結びつきにつき、別な角度からの科学的検討を加えなかつた点に最大の特質ないしは欠陥があり、本件デッキシューズ内に印されている足型と被告人のそれとの異同及び右シューズ内に滲み込んでいる汗等の血液型と被告人のそれとの異同の各観点等から鑑定が行われたのは本件公判段階に至つてからのことであり、しかも、それは、当裁判所から検察官に対しその旨の立証をするよう促す釈明が出されるに及んでようやくにしてなされているのである。なお、便宜ここで、本件警察犬による臭気選別の結果の証明力を盲目的に過大評価してはならないことに触れておく。その理由は、体臭を含めて臭気の実体及び犬の嗅覚、とりわけ、犬がどのようにして臭気の異同を選別しているのか、そのメカニズム等についていまだ科学的に解明されてはいないことなどの一般論のほかに、本件二頭の警察犬の所属する訓練所では、その日常の臭気選別の訓練において、主として物品選別台上に原臭物品(あるいはその移行臭白布)とこれと同一の移行臭の選別物品(これを正解物という。)が必ず一個存在する場合に当該正解物をくわえて来るように仕込むという方法を行つていて、右台上に正解物を置かない場合に警察犬が何もくわえて来ないといういわばゼロ回答訓練は、多用すると警察犬に徒労感というか俗に「やる気」というべきものを失くさせひいてその選別意欲を減退させてしまうという動物習性の限界があるため、ほとんどこれを行つていないからである(警察犬訓練所係官の証言)。そして、右のような日常訓練の結果、警察犬は、正解物が存在するか又はその存在の可能性の高いことが他の証拠により確認されている場合には、その物品の臭気選別の結果は相当の証明力を有する場合もあるであろうが、正解物が存在しない場合においては、何もくわえて来ないという訓練をほとんどしていないがゆえに、物品選別台上から、対象白布数個あるうちでは原臭物品の臭いに最も似た一個の白布等を誤つて持参して来る蓋然性もかなり多いことが考えられ、少なくともその可能性のあることは否定できないのである。よく訓練された警察犬などが隠匿された覚せい剤等の禁制品の探索・発見や地震等により生き埋めになつた人々の発見その他の分野で近時目覚ましい活躍をしていることは公知の事実であるとはいえ、右警察犬なども要はその使用する側が適正な利用をするか否かにその効果がかかつているところ、本件は臭いの新鮮とはいえない遺留された原臭物品(本件臭気選別は原臭物品採取後約二か月半経過した時点で行われている。)をもとにし、人の体臭との結びつきを解明しようという臭気選別の場合であり、しかもそれが全くの見込捜査の一環として行われ、前述のとおり正解物が果たしてあるのかどうか皆目わからないのであるから、右選別の結果の証明力は極めて低く、せいぜい捜査遂行のための一手段あるいはごく補助的な証拠としてこれを使用すべきであつて、あたかも指紋が照合したかのようにこれを決定的な証拠と考えることなどは論外というべきである。

三説示がやや脇道にそれたが、主題に入り、本件公判段階で行われた本件デッキシューズ及び本件素足痕石膏の各鑑定の結果を中心として本件犯行と被告人との結びつきの有無を検討することとする。

1 まず、本件で幸いなことは、本件デッキシューズが前述のとおり何人かにより長らく履き古されたものであるため、その内部に諸痕跡が明瞭ともいえる程度には残つており、本件素足痕石膏もかなり鮮明な形態で採取されている上、被告人自身の側をみても、その足には格別な特徴、即ち、人差指のほうが親指よりも際立つて長いという特徴があり、さらには、その血液型も分泌型であつて、相当の期間着用すれば当然靴の中に自らのB型の汗等の体液を残すということである。そのため、右の判定とりわけ本件デッキシューズが被告人が着用したものではないという否定的な方向での判別は、右シューズ内に被告人の前記特徴と異なる足跡が残つているか、あるいはその血液型と異なる体液が存するかどうかによつて、比較的容易になしうるということである。鑑定人K(前京都大学教授・同大学霊長類研究所の初代所長)作成の鑑定書及び同人の当公判廷における供述(これらを以下「K鑑定」という。)によれば、本件デッキシューズの内底面に印されている足の痕跡から推認されるその着用者の足の形状は、明確に被告人のそれとは異なつており、前述の親指と人差指の関係では、着用者の親指のほうが人差指よりも長く、また、その足長(踵の後端中央点から最長指の先端点までの長さ)自体においても、右着用者のそれは被告人のそれよりも相当長いこと、また、本件素足痕石膏から推認されるその歩行者の足型も、右と同様、被告人のそれと異なることが優に認められ、このことは甲被を取り除いた本件デッキシューズの内底面の写真及び本件素足痕石膏の親指と人差指自体を素人が観察しただけでもよく納得しうるものである。加えて、鑑定人H(警視庁科学捜査研究所勤務)作成の二通の鑑定書及び同人の当公判廷における供述(これらを以下「H鑑定」という。)によれば、同鑑定人はその鑑定の結論としては「本件デッキシューズは被告人が着用していたものではないと思われるが断定はできない。」又は「本件デッキシューズは被告人が着用していた可能性は小さいが否定はできない。」と被告人着用の蓋然性を全く否定はしないものの、その内容を仔細に検討すると、同鑑定人が本件デッキシューズ内底面の表面等に付着している汗様のもののみならず、右内底面の一部を削り取つてその深部に滲み込んでいる体液様のものに血液型判定のための各試験を施したところ、いずれも被告人が分泌型であるにもかかわらず、その血液型であるB型反応は全く検出されず、微弱ながらもA型又はO型の反応あるいはA型様の型反応を示したことが認められ、前記の各結論は、例えば、被告人が本件デッキシューズを数回履いただけの場合や汚れ落としのため本件デッキシューズを洗うなどの思いがけない事実も絶無とはいえないので、慎重な表現を用い断定的な記載を避けたというのであるところ、履き古した靴を数回使用しただけの場合というのはとりも直さず、他人の古靴を盗んだか拾得した場合が想定されるが戦後間もない物資窮乏時代等であればともかく、持ち靴も多数の現代の若者である被告人が右のような古靴を盗取などするはずは無いし、また、革製の右シューズを縮ませたり固くさせるためあえて水洗いなどすることもまずは考えられないところであつて、H鑑定もK鑑定に次いで本件デッキシューズが被告人の着用したものではないことのほぼ決定的な証左となりうるものといえる。もつとも、本件デッキシューズに関しては、右両鑑定結果とニュアンスを異にする鑑定人T(警視庁刑事部鑑識課足跡鑑定官)作成の鑑定書及び同人の当公判廷における供述(これらを以下「T鑑定」という。)もあるが、右の結論は単に「本件デッキシューズの内底面に印されている第三、四、五指の三本の指の配列位置が被告人の右三本の足指のそれと類似性がある。」というに過ぎないものであつて、右鑑定結果自体極めて証拠価値の乏しいものであるが、さらに、その内容を考察すると、右鑑定では足長による前記のような比較も行つていないばかりか、肝心の親指及び人差指については、本件デッキシューズ内のどこにその痕跡が印されているか分らずその各長さの比較も判然としないというのであつて、前記内底面の写真そのものに反するばかりか、右判然としない理由に至つては、例えば、歩行者が靴の中で親指の上に、よく動く人差指を重ね、一体としながら歩く可能性があるからというのであり、このような軽業的なことは常人のよくなしえないことは明らかであつて、右の如き非常識極まることさえいう右鑑定は採用するに値しないものといわざるを得ない。以上要するに、本件デッキシューズ等の物証は、本件においては、被告人の有罪か否かを左右する決め手といいうるものであり、K及びH両鑑定に徴すれば、それのみで本件犯行と被告人との結びつきが否定されるところである。

2  のみならず、本件各証拠によれば、被告人の本件犯人性を否定する上でとうてい看過しがたい次のような間接事実が認められるのである。即ち、(1)被告人は本件犯行当夜の午前二時ころまで妻及びいとこのYと共に自宅からさして遠くないスナック「フェニックス」で長時間にわたり飲酒するなどした後、右両名と連れ立つて帰途につき、途中ラーメンの屋台に立ち寄り、午前三時ころ帰宅し、そのまま、自宅の二間のうち、一間には被告人と右Yが就寝し、他の一間である隣室には妻と折から被告人の実家から泊りに来ていたその実母の二人が寝たが、右Yらは酒の酔いのためすぐ眠り込むなどし、本件犯行時である午前三時三〇分ころにおける被告人の動静は誰も見てはおらず、厳密な意味での被告人のアリバイは成立してはいないものの、右のとおり、本件犯行は被告人らの右帰宅後の僅かの間に敢行されており、被告人がこれを行つたとするには時間的余裕の点でも無理な感を否めないのみならず、何よりも、被告人が自宅を抜け出て本件のような犯行に及ぶとすれば、自己居室には右Yが宿泊し、かつ隣室には妻のほか実母が就寝していて、右三名がいつ目覚めるかも知れないのに、よりによつて右発覚のおそれの強い同夜を実行の日に何故に選んだのか、その合理的説明はつかず不自然極まりないこと、(2)被告人は犯行当夜は前記スナックで相当飲酒し、かなり酔つていたことは明白であるところ、本件犯行は右飲酒終了後さして時間の経過していない時点で行われているにもかかわらず、被害者は犯人に仰向けに押し倒され、手で口をふさがれるなど犯人と接近した際にも右犯人から酒臭は何も感じてはいないこと、(3)被告人は前記のとおり、本件後の別件窃盗により逮捕されてはいるが、それ以前は交通事犯で罰金刑を一回受けただけで、逮捕歴も皆無であり、いわゆる「したたかな」犯罪者とは程遠く、現に余罪の追及を受けると、右別件での勾留中に、ほか二件の古い窃盗(これも起訴・有罪とされたことは既述のとおり。)も自ら進んで供述し、その他女性用下着の窃盗はては単なる痴漢行為に類する行為まで率直に警察官に吐露しているところ(これらが被告人に色情的傾向ありとして本件見込捜査を招いた一因ともなつている。)、本件犯行日の昼ころ、右Yがレッカー車により移動させられた自動車を板橋警察署に受取りに赴いた際、被告人も右Yを自分の自動車に乗せて同行し、警察官とも会話まで交わしているが、初めて本件のような重大な犯罪を犯した直後のはずの被告人の心理として、このような挙に出ることはいささか大胆に過ぎ、腑に落ちないこと、(4)被告人は本件逮捕後ポリグラフ検査を受けることを承諾して種々の質問を受けているが、その内での「犯人は靴を置いていきましたか。」との問に対して異常反応を示してはおらず、もとよりポリグラフ検査の証明力にも多々問題があるとはいえ、被告人が真犯人であるとすれば、現場に残してしまつた自己の靴にこそ最大の不安を感ずるのが当然であるのに、右異常反応を示していないことは少なくとも犯人性否定の一つの材料にはなりうること、以上の諸事実等も挙げうるのである。

3  右のとおりであつて、前記K、H両鑑定にこれら諸事情をも加味して考慮するならば、本件犯人が被告人であるなどという主張は何のいわれもないことであり、真犯人は別人と推認するのが理の当然であることは多言を要しないところである。

四しかるに、検察官は、その論告において、当裁判所がさきに被告人の自白調書等の任意性に疑いがあることを理由にその証拠調請求を却下したことを論難し、かつ、右自白調書等の内容は「正に犯人でなければなし得ないもの」であるのに、これを当公判廷に顕出できなかつたがゆえに、いわゆる求刑等の陳述を差し控えるなどと述べ、あたかも右自白調書等が証拠として採用されれば本件は有罪認定が可能であつたかのような口吻をもらしているが、検察官は、関係捜査官らさえも当公判廷で肯定する前記二の諸事実をどのように受けとめているのか了解に苦しむところであり、右は、本件の証拠関係の正当な吟味に全くそわない独自の見解というべきである。けだし、既に繰り返し説示しているように、被告人の自白調書等の有無に関係なく、本件は、有罪かどうかを左右する決め手である本件デッキシューズ等の鑑定その他客観的事実から検討して、被告人が無罪であることに全く疑いのない事案なのであり、仮に、被告人の自白調書等に任意性があり、かつ、その内容が一見所論のように信用性を具備しているかのように見えるものであつたとしても、そのような調書等も、前記の動かし難い客観的事実関係に照らして、これにとうてい信を措くわけにはいかないからである。それはさておき、検察官から右の如き論告がされていることにかんがみ、蛇足ながら、以下、被告人の自白調書等にその任意性など無い所以を述べることとする。本件各証拠を総合すると、次のような諸事実を認めることができる。即ち、(1)被告人が別件の窃盗被告事件で執行猶予となり身柄の釈放を受けると、警察官から即日本件により逮捕されるに至つたことは既述のとおりであるが、それまで、被告人は、警察官からは、単にお前にはまだ余罪があり再逮捕するぞなどと抽象的には言われていたものの、本件の被疑事実につき何らの追及を受けたことはなく、本件逮捕によりその被疑事実が自宅からごく近い前記寮を舞台とする強盗強姦未遂被疑事件であることを知つて驚いたこと、(2)被告人はもとより本件被疑事実を否認し、すぐに犯行当夜の行動につき右Yらと共に前記スナックで飲酒したりその後自宅で同室したこと等を思い出し、本件につき当然アリバイが成立すると思つて、その旨警察官に訴えたが、警察官からは右の訴えなど聞き入れてもらえず、被告人の供述する右スナックから被告人方への前記帰宅時刻と前記スナックの従業員らから聞き出して警察官が推測したそれとの間に若干の齟齬があつたため、これにつき被告人のほうが嘘をついているとして、かえつて疑惑を深められ、捜査検事からも右同様アリバイ主張は虚構であるとして取り扱われたこと、(3)被告人はその後も依然として右アリバイ主張等をして本件犯行を否認し続けていたところ、勿論否認調書なども作成されないまま、相も変らず、警察官との間にアリバイの存否等をめぐつて同様のやりとりが繰り返され、警察官からは「嘘を言うな。」、「本当のことを言え。」などとひたすら追及されるなどされるうち、日時がいたずらに過ぎ、本件の勾留期間は延長されるに至つたこと、(4)ところで、警察官は、本件取調べの当初からすぐに被告人に本件デッキシューズの物証の存在を知らせることは避け、最も効果的な時期を選んでこれを被告人に示す方針をとつていたところ、右勾留延長後の同年七月二八日ころから急遽被告人の取調時間を長くするようになり、ほぼ夜間の九時ころまで調べるのは連日のことで遅い時は深夜にまで及ぶようになり、この間、しばしば大声で怒鳴りつけたり、また、取調用の机をしきりに手でたたくなど被告人を威嚇することなどもするに至つたこと、(5)そして、その後の同月三〇日における警察官の取調べに至つては、右同様の方法に加えてしばしば被告人の座つている椅子の下部を足蹴りするものともなり、その時間も午後六時一〇分ころから翌三一日午前零時三〇分ころの遅きに及んだほか、さらに同三一日にも午後一時三〇分ころから約三時間にわたつて同様の取調べを行い、それまで警察官を見返すなどしていた被告人の視線も下を向きがちになると、ここに、警察官においては被告人を間もなく自白に追い込むことができるとの感触を得るに至り、本件捜査を事実上指揮していた板橋警察署盗犯第三係長の指示のもと、同三一日の夜間における取調べの際に被告人に初めて本件デッキシューズを示して一挙に被告人を自白させる予定を立てたこと、(6)同三一日夜の取調べも午後六時一〇分ころから開始され、その取調方法は前同様であつたが激しさを増し、午後九時過ぎになると、警察官は「この靴はお前のだろ。」などと言つて被告人に本件デッキシューズを初めて示し、これに対して被告人がこのような靴は知らない旨述べると、警察官は口々に「お前のだ。」と大声で怒鳴つたり、前記係長を含めた警察官が指で被告人の頭を小突くなどしたこと、(7)そして、右係長においては被告人に対し「今の発達した科学では、人間の分泌物から、その細かく枝分かれした血液型を知ることができ、指紋と同様、同じ分泌物の人間は一億人に一人しかいないが、その(本件デッキシューズの意)分泌物がお前のと一致した。」趣旨のことを申し向けたところ、被告人としては、同日昼ころ右係長から自己の唾液の任意提出を求められ、その時は格別意に止めずにこれに応じていたところ、前記の言辞を言われるに及んでもはや何を言つても無駄であるとの思いから抵抗の気力を失い、絶望の余り頭を机に打ちつけるなどしたり、号泣した末、本件の犯人はお前かという問いに概括的にこれを認めてしまい、警察官が右の結論だけ記載しただけのようなごく短かい自白調書を作成するとこれに署名指印し、さらに言われるまま、ほぼ同旨にしてこれに任意性をあたかも担保するが如き内容をつけ加えた上申書を自ら作成したこと、(8)被告人は右の自白した日以降は、警察官の取調べに対してはもはやいわば言いなりの状態になつてしまい、要所要所での警察官の誘導に乗つたほか、自分なりに本件犯行を憶測しては積極的に迎合して自白を続けるなどし、このようにして自白調書等が日々作成されるに至つたこと、(9)また、被告人は担当捜査検事からも右最初の自白をした日の翌日である八月一日に取調べを受けたが、東京地検第二庁舎まで単独押送を受けた際、同行した警察官から右検事の心証を良くする方法として土下座をしてこれまで否認していたことを詑びることを教えてもらつていたので、検事調べの冒頭に「今まで嘘をいつてすみませんでした。」と土下座をし、このような迎合的態度にまで出る状況に陥らせられていたこと、(10)ところで、右検事の右の日の取調べの際には、その取調室内に前記の分泌物云々の嘘を述べた前記係長が被告人のすぐ後方に同席して右検事の取調状況を見聞し、右検事もこれに配慮を加えることもしなかつたが、もはや当時は被告人としては警察官も検察官も区別する意識など全くなく、右検事においても警察調書と同旨のことを聞き、他方被告人もこれに対して右同旨のことを述べ、このようにして右検事との間で俗に焼き直し調書といわれる新味のない要約的な調書が作成されていつたこと、以上の諸事実が認められるところであり、右のうち、前記盗犯第三係長が被告人に対し前記のような強い心理的強制を与える性質の分泌物検出云々のあざとい虚言を述べて自白を引き出した点のみで既に許されざる偽計を用いたものとして、その影響下になされた被告人の自白調書等はすべてその任意性を肯定できないと解すべきところ、加えるに、その余の既述の苛烈な取調方法をも併せ考えると、とうていその任意性などはこれを認めることはできないのである。右に関し、本件公判で証人として出廷した各捜査官は、椅子を足蹴りしたり、被告人の頭を小突くことなどは一切していない旨証言するけれども、その各供述態度は、すぐに前言を翻すなど極めて一貫性がなかつたり、不利な事項の尋問に対する答えを極力そらそうとする不明朗なものであつたりし、又は建前論として単調な否定を繰り返す紋切り型のものなどで、被告人のこの点に関する供述、即ちその描写に思わぬ意外性を交えつつ実際に体験した者でなければとうてい表現できない迫真性を帯びた真摯なその一貫した供述に照らして、措信できないといわざるをえないところである。また、被告人の自白調書等の任意性のないことは、前記のことのほか、被告人の自白調書等自体の内容の安易な変更、即ち、既述の本件デッキシューズの入手先という重要部分を含めて、数多くのまず記憶違いなどするはずのないと考えられる諸事実につき変遷があることにかんがみても裏付けられてもいるのである。例えば、その主なものを若干拾いあげただけでも、(1)本件デッキシューズを「アメ横」所在の靴店から買つたとする点につき、被告人は、当初は、その買入価格を六〇〇〇円余りと供述していたところ、警察官が裏付捜査をし実際には三九五〇円であることが判明すると、その後の調書では、被告人の供述する右買値も四〇〇〇円に近かつたと極めて迎合的に変更され、右変更の理由に至つては右靴店に一万円札を出して買つた際にもらつたおつり(約六〇〇〇円)と買値(約四〇〇〇円)とを勘違いしていたなどという苦しまぎれの噴飯物ともいうべきもので処理されていること、(2)被告人が本件犯行を思い立つに至つた経緯、動機についても、被告人は、当初は、金欲しさのみから本件を思い立つたことになつていたのに、次には、前記のスナックから自宅に帰つた後に眠れないまま一人で深夜自宅を出て散歩していたところ、急に金員が欲しくなり、また、同時に女性の体に触つてみたくなつた旨に変わり、さらにその後、実は本件は自宅内で寝つかれないままでいるうち、考えついた計画的犯行であるなどといつた具合に供述が転々としていること、(3)本件被害現金額は約三万七〇〇〇円であつて、その金種は一万円札三枚、五千円札が一枚、その余の僅か二、三枚が千円札であるところ、警察官の誘導質問に手落ちがあつたためか、当初は、被告人において逃走途中わざわざ街灯で盗んだ金員を確認すると、一万円札三枚、千円札が七、八枚あつたと明確に供述していながら、その後、次第に千円札が七、八枚あつたと言つたのははつきりしないように変り、五〇〇〇円札もあつたかも知れないなどといとも簡単にこの点も訂正していること、(4)前記寮の敷地内への侵入口についても、被告人は、当初は、右寮西側の鉄製門から侵入した旨供述していたところ、その後の被告人を伴つての引き当たり捜査の際、右鉄製門の上に「忍び返し」が付けられていて侵入困難なことが判明すると、その後の供述で、これまた都合よく、他の入り易い場所に侵入口を変更していること、(5)裸足のまま被告人が逃走したとする経路についてもこの点は終始、まず被告人宅とは反対方向に走り、その後長時間を要しかつ人目にも触れ易い道路を通りつつ大きく迂回して引き返すという了解しにくいものとなつているところ、右の経路の途中までは、犯行後それ程時間を経過しない時点で出動した警察犬が真犯人を追跡可能であつたとする終了地点と暗合し、そこに極めて作為的なものが窺われること、その他、細かな点まで同様に挙示すると、煩瑣に耐えないものがあり、このように捜査官側にとつて極めて都合がよく、その反面、意のままに自白を得ることができる安心感がそうさせたものか、粗雑にして不自然さや矛盾に満ちた自白の変遷内容があることに照らしてみても、右自白調書等は単に信用性に欠けるにとどまらず、その任意性についても多大な疑念を抱かせるものがあるのである。

五以上の次第であつて、被告人が本件犯行の犯人であろうはずはなく、本件はずさん極まる見込捜査により公訴事実に証明がないことに帰したものであるから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をすることとする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官反町宏 裁判官髙麗邦彦 裁判官平木正洋)

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