大判例

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東京地方裁判所 昭和62年(合わ)101号 判決

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決勾留日数中一二〇日を右刑に算入する。

理由

(犯行に至る経緯)

被告人は、東京都板橋区内の高等学校を卒業し、ガソリンスタンドにしばらく勤めた後、昭和四〇年に結婚して長男をもうけたが、昭和五二年に離婚し、その後デパートの店員や飲食店の経営等をしていたが、昭和五一年ころから覚せい剤の使用を覚え、以来しばしば使用し、覚せい剤取締法違反の罪により昭和五三年及び昭和六一年にそれぞれ執行猶予付有罪判決を受け、二度目の判決を受けた後は同居していた長男を前夫のもとに預け、デパートやスーパー等でアルバイトをするのみで定職を持たない生活を送つていたものである。

ところで、被告人は、昭和五七年ころから現住居地の東京都板橋区坂下○○丁目××番△△号所在の都営住宅アパート一〇一四号室に居住していたが、入居当初から隣人との付き合いがほとんどなかつた上、隣室である一〇一三号室の乙野花子らから疎外されているものと感じ、また、次第に、同女らが、自分の仕事が水商売であることや家庭が母子家庭であることについて自分を馬鹿にしており、同アパートから追い出そうとしているのではないかという疑念を抱くようになつていたが、それとともに、前記の経緯で長男を前夫に預けるようになつて以降は、長男のことをも気にかける日々を送つていたが、昭和六二年五月中旬ころより再び覚せい剤を手に入れ使用するようになつた。

(罪となるべき事実)

被告人は

第一法定の除外事由がないのに、昭和六二年五月一七日早朝、前記の被告人方居室において、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパン約0.02グラムを含有する水溶液約0.25立方センチメートルを自己の右腕部に注射し、もつて、覚せい剤を使用し、

第二右の覚せい剤が効果を現すにつれ、隣りの一〇一三号室の乙野花子方から騒がしい物音がしているように感じるようになり、同女方のドアを叩いたが、中から何の反応もなかつたため、いつたん自室に戻つたものの、同女らに対する日ごろからの憤まんやるかたなく、これを晴らすため同女方に火を放つて驚かそう、それによつて同女方が焼燬してもかまわないと決意し、同日午前一〇時〇五分ころ、前記被告人方のベランダにおいて、古新聞等を詰め込んだダンボール箱に灯油約2.5リットルをまき、これにガスコンロで点火した新聞紙を入れて燃え移らせ、その上に別の空ダンボール箱を押し込んで蓋をした上、これを被告人方と右乙野方との遮蔽板越しに右乙野方のベランダに投げ込んで火を放ち、乙野花子ほか三名が現に住居に使用している同女方(鉄筋コンクリート造り、床面積43.96平方メートル)を焼燬しようとしたが、同女らに発見消火されたため、その目的を遂げなかつた

ものである。

(証拠の標目)

判示事実全体について

一  被告人の当公判廷における供述

一  被告人の検察官に対する昭和六二年五月二七日付(全四丁のもの)及び同年六月四日付(全一六丁のもの)各供述調書

一  司法警察員作成の実況見分調書二通

判示犯行に至る経緯及び判示第二の事実について

一  被告人の司法警察員に対する同年五月一八日付供述調書

一  乙野花子の検察官に対する供述調書

判示犯行に至る経緯について

一  東京都板橋区長栗原敬三作成の身上調査照会回答書

一  検察事務官作成の前科調書

判示第一の事実について

一  被告人の検察官に対する同年六月三日付供述調書

一  被告人の司法警察員に対する同年五月二五日付供述調書

一  司法警察員作成の写真撮影報告書二通

一  警視庁科学捜査研究所第二化学科主事阿部猛作成の鑑定書

一  東京都衛生局薬務部長土屋正康作成の捜査関係事項照会回答書

判示第二の事実について

一  被告人の検察官に対する同年五月二七日付(全五丁のもの)及び同年六月四日付(全四丁のもの、二通)各供述調書

一  被告人の司法警察員に対する同年五月二一日付及び同月二六日付(二通)各供述調書

一  乙野花子の司法警察員に対する供述調書

一 司法警察員作成の電話聴取報告書(被告人の判示第二の犯行時における責任能力について)

一弁護人は、被告人の判示第二の犯行(以下、本件犯行という。)は、覚せい剤中毒又はパラノイアあるいは精神分裂病による精神障害のために生じた幻覚等に支配されて、あるいは少なくとも強く影響されてなされたもので、当時被告人は心神喪失もしくは心神耗弱の状態にあつた旨主張する。

二そこで、この点につき検討するに、

(1)  まず、前掲各証拠並びに医師である証人徳井達司の当公判廷における供述及び同人作成の精神衛生診断書によれば、判示のとおり、被告人は、昭和五一年ころから覚せい剤を使用するようになり、その後も断続的に使用してきたが、本件犯行直前の五月中旬ころにも友人から覚せい剤を譲り受け、犯行当日にかけて、数回にわたりこれを使用しており、覚せい剤が効果を現すにつれ、隣りから騒がしい物音がしているように感じるようになり、それとともに、前記乙野花子らに対する日ごろからの憤まんやるかたなく、ついには本件犯行に及んだこと、並びに、被告人が本件犯行の前日の午後九時三〇分ころ、右乙野方の隣りの一〇一二号室の丙野方のドアーの所に立つて、さかんにうなずいており、更に、本件犯行直前に右乙野方の玄関ドアーを叩く前に、まず右丙野方に行つて同人方の家人に、「タベから芸能人を隠しているでしよう」と尋ねている等の奇妙な言動をとつていること、加えて被告人は医師徳井達司の問診に際して、覚せい剤を打つと、「やつちやいけない」等の幻聴が聞こえたり、誰かに覗かれている感じがしたりした等と述べていることが認められ、これらの諸事実に鑑みると、被告人が本件犯行当時、覚せい剤の薬理作用によりその精神に何らかの影響を受けていたことは否定できない。

(2) しかしながら、証人徳井達司の当公判廷における供述によれば、一般に覚せい剤中毒による精神障害は、精神分裂病などとは異なり、人格そのものの変化によるものではなく、毒物による脳の刺激現象として起こるものであり、従つて覚せい剤中毒者においては、精神分裂病類似の幻覚や妄想を呈する状態にあるような場合でも、それが慢性化していない限り、そうした異常体験に対する批判やある程度の洞察が保たれていることが通常であるとされるところ、前掲関係証拠からすると、被告人も、従来の覚せい剤使用の経験からして、覚せい剤を使用すると自己の精神状態に悪影響が出ることを十分認識していたものと認められる。

(3) 加えて、本件における被告人の精神症状の内容は、前記のとおり隣家の騒がしい物音や、あるいは「(覚せい剤を)やつちやいけない」という幻聴や、「覗かれている感じ」といつたものなのであつて、前記徳井証人の当公判廷における供述によれば、これらはいずれも、不可避的に被告人を本件放火行為に走らせるような内容のものではなく、本件犯行当時被告人には自由な意思選択の余地が十分に残されていたものであることが認められる。

(4) そして、前掲関係証拠によれば、被告人が本件犯行を決意するに至つた経過は、判示のとおりであり、火を放つた直接の目的も、隣家に現在する住人を驚かそうというものであつて、その心理的側面は段階を踏んでおり、隣家の住人を日ごろから快く思つていなかつた被告人の立場及び被告人が興奮しやすい性格の持主と窺われることを併せ考えると、被告人の本件犯行は、ことさらに覚せい剤による病的な精神過程を介在させなくとも十分了解可能なものである。

(5) また、前掲関係証拠によれば、被告人は捜査段階において、本件犯行直後、犯行に対する罪悪感から自己嫌悪に陥つて、いつたんは自殺を考えたが、そのようなことで自殺すると自分自身が笑いものになり、また親兄弟にも迷惑がかかると思うとともに、長男の将来のことを考えて、これを思いとどまつた旨述べており、当公判廷でも大要これを認めているので、右は、当時の被告人の真情と認められるところ、このことは、被告人が当時、自己の行為の意味内容を十分に理解していたことを示すものということができる。

(6) 被告人は、捜査段階及び当公判廷において、犯行前後の行動についての記憶をおおむね正確に保持しており、当事の意識は清明であつたことが認められる。

(7)  前掲関係証拠殊に医師徳井達司作成の精神衛生診断書及び同人の当公判廷における供述によれば、被告人には現在特段の精神的異常が認められないことから、精神分裂病やパラノイア等の精神病の可能性については、明らかにこれを否定できる。

三以上を総合してみるに、本件放火未遂の犯行につき、被告人には覚せい剤の影響以外の精神障害の存在は考える余地がなく、覚せい剤の影響は否定できないものの、その程度については、犯行当時覚せい剤中毒の幻覚や妄想に深く支配され事理弁識能力及びこれに従つて行動する能力が失われた状態でなかつたことは勿論、これが著しく減弱した状態でもなかつたことは明らかといえるから、被告人は心神喪失は勿論心神耗弱の状態にもなく、弁護人の主張は採用できない。

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は覚せい剤取締法四一条の二第一項三号、一九条に、判示第二の所為は刑法一一二条、一〇八条にそれぞれ該当するところ、判示第二の罪について所定刑中有期懲役刑を選択し、右は未遂であるから同法四三条本文、六八条三号を適用して法律上の減軽をし、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により重い判示第一の罪の刑に法定の加重をした刑期(ただし、短期は判示第二の罪の刑のそれによる。)の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中一二〇日を右刑に算入することとし、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

本件は、判示のとおり、被告人が、覚せい剤を使用した上、集合住宅の隣室の住人に対し日ごろのうつ憤を晴らそうと、白昼火を放つたという事案であるが、覚せい剤使用については、被告人は二度にわたる同種前科を有し、昭和六一年に保護観察付き執行猶予の判決を受けたばかりであつて、自分でも覚せい剤を射つと精神状態に悪影響が出ることを十分認識していながら、今回またもこれを使用し、その影響もあつて放火まで引き起こしているものであり、被告人の遵法精神の欠如は明らかであり、再犯のおそれも否定できない。また、放火未遂については、都会の住宅密集地にある集合住宅内における放火事件として一歩間違えば重大な惨事になつたことは優に想像でき、被害者が受けた恐怖と衝撃の大なること勿論であつて、被告人は、余りに安易にかかる危険な犯行に及んだものとして厳しい非難を免がれない。

したがつて、被告人の本件刑事責任は重大であるが、判示第二の犯行は多少なりとも覚せい剤の影響下のものであり、かつ幸い未遂に終わつていること、被告人が当公判廷において反省悔悟の態度を示していること、今回の事件により前刑の執行猶予が取り消されること等の被告人に酌むべき事情を考慮して、被告人に対しては判示第二の罪について未遂減軽した上で、主文掲記の刑に処するのが相当と判断した。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官豊田建 裁判官竹花俊德 裁判官畑一郎)

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