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東京高等裁判所 平成8年(行ケ)33号 判決

フランス国

75848 パリ セデクス 17 リュ バヤン 43

原告

ヴァレオ

代表者

マルク ルメール

訴訟代理人弁理士

竹沢荘一

倉持裕

東京都千代田区霞が関3丁目4番3号

被告

特許庁長官

荒井寿光

指定代理人

新海栄

鍛冶澤實

吉野日出夫

主文

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

3  この判決に対する上告のための附加期間を90日と定める。

事実

第1  当事者が求める裁判

1  原告

「特許庁が平成5年審判第17189号事件について平成7年9月28日にした審決を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決

2  被告

主文1、2項と同旨の判決

第2  請求の原因

1  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和56年8月28日に名称を「摩擦用ライニング」とする発明(以下、「本願発明」という。)について特許出願(昭和56年特許願第136042号。1980年9月4日フランス国においてした特許出願に基づく優先権主張)をし、平成2年9月3日に特許出願公告(平成2年特許出願公告第38809号)されたが、特許異議の申立てがあり、平成5年3月11日に拒絶査定がなされたので、同年8月30日に査定不服の審判を請求し、平成5年審判第17189号事件として審理された結果、平成7年9月28日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決がなされ、その謄本は同年11月2日原告に送達された。なお、原告のための出訴期間として90日が附加されている。

2  本願発明の要旨

1. ガラス繊維及び/又は石綿繊維よりなる無機繊維を、5~30重量%、

初期可溶融性であるが、架橋結合性であり、それにより、使用の加熱条件下で保護殻を形成するアクリル系及び/又はモダクリル系繊維を、5~40重量%、

硫黄、カーボンプラック、グラファイト、硫酸バリウム、ムードンホワイト、黄鉄鉱、ジルコン、銅、真鍮の全部又は一部を含有する充填剤を、30~60重量%、

樹脂及び/又はゴムの全部又は一部を含有するバインダーを、10~25重量%を含むことを特徴とする摩擦用ライニング(以下、「本願第1発明」という。)

2. ガラス繊維及び/又は石綿繊維よりなる無機繊維を、5~30重量%、

初期可溶融性であるが、架橋結合性であり、それにより、使用の加熱条件下で保護殻を形成するアクリル系及び/又はモダクリル系繊維を、5~40重量%、

不溶融性の有機繊維を、25重量%以下、

硫黄、カーボンプラック、グラファイト、硫酸バリウム、ムードンホワイト、黄鉄鉱、ジルコン、銅、真鍮の全部又は一部を含有する充填剤を、30~60重量%、

樹脂及び/又はゴムの全部又は一部を含有するバインダーを、10~25重量%を含むことを特徴とする摩擦用ライニング(以下、「本願第2発明」という。)

3  審決の理由の要点

(1)  本願発明の要旨は、その特許請求の範囲1及び2に記載された前項のとおりのものと認められる。

(2)  これに対し、米国特許第3、270、846号明細書(以下、「引用例」という。)には、

「金属裏当て部材及び該裏当て部材に接着固定された弾力性ある多孔質摩擦フェーシングを有し、該摩擦フェーシングが、主として天然セルロース繊維及び200°Fに耐えうる合成有機繊維の群から選ばれる少なくとも1つの繊維材料約30重量%~約70重量%、アスベスト繊維約5重量%~約35重量%、3.5モースよりも大きい硬度の少なくとも1つの無機充填材料約10重量%~約50重量%を含有するインターフェルトされた繊維質紙シートからなり、さらにフェーシングは紙の重量に対して約10%~約50%の、少なくとも1つの硬化せる熱硬化性樹脂を含有し、フェーシングは少なくとも60%の気孔率を有する、油中で運転するように適合されたトルク制御装置用摩擦部材」(クレーム1)

が記載されており、また、上記合成有機繊維に関し、「適当な合成有機繊維は200°F以上の外界温度に耐えることができ、押出しまたは紡糸によって形成される。このようなものは例えば下記のものである。……ポリアクリルニトリルからなる合成繊維(オーロン)、……塩化ビニルとアクリルニトリルとの共重合体(ダイネル)等。」(5欄2行ないし14行)と記載されている。

(3)  本願第1発明及び本願第2発明と引用例記載の発明とを対比検討すると、引用例記載の発明は、摩擦部材に含有させる繊維材料に関し、合成有機繊維の群のみから選ばれる少なくとも1つの合成有機繊維を含有させて良く、また、合成有機繊維の群から選ばれる1つ以上の合成有機繊維と天然のセルロース繊維とを混ぜて含有させても良いこと、そして、引用例記載の「ポリアクリルニトリル合成繊維(オーロン)」と「塩化ビニルとアクリルニトリルの共重合体(ダイネル)」が、それぞれ本願発明の「アクリル系繊維」と「モダクリル系繊維」の一種であること、さらに、引用例記載の「天然のセルロース繊維」が本願第2発明の「不溶融性の有機繊維」の一種であることは明らかであり、また、本願発明が充填剤として列挙した硫黄、硫酸バリウム、カーボンブラック、グラファイト、ジルコン、銅、真鍮は本願優先権主張日前に周知の無機充填材料であり、さらに、引用例記載の「アスベスト繊維」は本願発明の「石綿繊維」に相当するものと認められる。

してみると、本願第1発明と引用例記載の発明とは、

「石綿繊維よりなる無機繊維を5~30重量%、アクリル系繊維及び/又はモダクリル系繊維15重量%~40重量%、硫黄、カーボンブラック、グラファイト、硫酸バリウム、ムードンホワイト、ジルコン、銅、真鍮の全部又は一部を含有する充填剤を、30~45重量%、樹脂よりなるバインダーを10~25重量%を含む摩擦用ライニング」である点で一致しており、また、本願第2発明と引用例記載の発明とは、

「石綿繊維よりなる無機繊維を5~30重量%、アクリル系繊維及び/又はモダクリル系繊維を15~40重量%、不溶融性の有機繊維を23重量%以下、硫黄、カーボンブラック、グラファイト、硫酸バリウム、ムードンホワイト、ジルコン、銅、真鍮の全部又は一部を含有する充填剤を30~45重量%、樹脂よりなるバインダーを10~25重量%を含む摩擦用ライニング」

である点で一致しているものと認められ、本願第1発明及び本願第2発明が、摩擦用ライニングに含有されるアクリル系及び/又はモダクリル系繊維が「初期可溶融性であるが、架橋結合性であり、それにより、使用の加熱条件下で保護殻を形成する」ものであるのに対し、引用例記載の発明が、それについて「200°Fに耐えうる」ものであるとしている点において一応相違するものと認められる。

(4)  上記相違点について検討すると、引用例記載の発明において200°Fに耐えうる合成有機繊維の例として挙げられたオーロンは、アクリルニトリル含有率が100~95%のポリマーにより形成されたアクリル系繊維であり、また、ダイネルは、アクリルニトリル含有率が85~35%のポリマーにより形成されたモダクリル系繊維であって(繊維学会編「化繊便覧」(丸善株式会社昭和38年5月28日発行)444頁参照)、本願発明にいうアクリル系繊維及びモダクリル系繊維とは繊維を形成しているポリマーの化学構造に差異があるとは認められないから、引用例記載の発明の摩擦部材に含有されるオーロンとダイネルにおいても、本願発明の摩擦ライニングに含有されるアクリル系繊維とモダクリル系繊維が使用時に現出する「初期可溶融性であるが、架橋結合性でちり、それにより、使用の加熱条件下で保護殻を形成する」という性状と同じ性状を有するものと解され、本願発明の「初期可溶融性であるが、架橋結合性であり、それにより、使用の加熱条件下で保護殻を形成する」という事項は、摩擦ライニングに含有されるアクリル系繊維及びモダクリル系繊維が有する単なる性状の限定にすぎないと認めうれる。

(5)  したがって、本願第1発明及び本願第2発明は、引用例記載の発明であるから、特許法29条1項3号の規定に該当し、特許を受けることができない。

4  審決の取消事由

審決は、本願発明と引用例記載の発明との相違点を看過し、かつ、その認定した相違点の判断を誤った結果、本願発明の新規性を否定したものであって、違法であるから、取り消されるべきである。

(1)  相違点の看過

引用例記載の発明の摩擦部材は、クレーム1に記載されているとおり、「油中で操作するトルク制御装置のための摩擦部材」のものである。このような摩擦部材は、油の循環による冷却効果を期待し得るから、含有される合成有機繊維も「200°F」、すなわち水の沸騰点以下の約93.3℃に耐えれば足りるとされているのである。

これに対し、本願発明が対象とする摩擦用ライニングは、外気中で使用されるブレーキあるいはクラッチ用のものであるから、使用時の温度は約250~400℃、場合によっては500℃にも達する。そのたあに、本願発明が要旨とする合成有機繊維は、「初期可溶融性であるが、架橋結合性であり、それにより、使用の加熱条件下で保護殻を形成する」ことが必須の要件とされているのである。

以上のとおり、審決は、本願発明が対象とする摩擦用ライニングと、引用例記載の発明が対象とする摩擦部材とが用途において相違する別個のものであることを看過しているが、この相違点についての判断の遺脱が、本願発明の新規性を否定した審決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。

(2)  相違点の判断の誤り

審決は、引用例記載のオーロンとダイネルも、本願発明が要旨とするアクリル系繊維とモダクリル系繊維が使用時に現出する「初期可溶融性であるが、架橋結合性であり、それにより、使用の加熱条件下で保護殻を形成する」という性状を有するものと解されると説示している。

しかしながら、引用例には、オーロンとダイネルが200°Fの耐熱性があり、4mm以上の長さを有し、物理的強度及び油吸収性において優れていることは記載されているものの、それらが「初期可溶融性であるが、架橋結合性であり、それにより、使用の加熱条件下で保護殻を形成する」ことは記載されておらず、かつ、そのような性状を有する合成有機繊維を採用すれば外気中の厳しい条件下でも使用し得る摩擦ライニングが得られることは示唆すらされていない(実施例を参照すれば、引用例記載の合成有機繊維は、摩擦部材の紙シートを補強するため、木綿に換えて使用されていると考えられるから、「初期可溶融性であるが、架橋結合性であり、それにより、使用の加熱条件下で保護殻を形成する」ことは全く不必要である。)。審決の前記説示は、オーロンがアクリル系繊維、ダイネルがモダクリル系繊維であって、本願発明が要旨とするアクリル系繊維あるいはモダクリル系繊維とは繊維を形成しているポリマーの化学構造に差異があるとは認められないことを論拠とするものであるが、すべてのアクリル系繊維あるいはモダクリル系繊維が「初期可溶融性であるが、架橋結合性であり、それにより、使用の加熱条件下で保護殻を形成する」ことが引用例において明らかにされていない以上、審決の前記説示は論拠が不十分というべきである。

この点について、被告は、本訴において新たに後記乙第1ないし第5号証刊行物を援用して、アクリロニトリル重合体及び塩化ビニル-アクリロニトリル共重合体が初期可溶融性と架橋結合性とを有することは本願優先権主張日前に広く知られていたと主張する。しかしながら、これらの刊行物は引用例とは全く無関係の独立したものであるから、被告の上記主張は、新たな引用例を追加して審決の正当性を維持しようとするものに他ならず、許されない。

また、乙第1ないし第5号証は、いずれも重合体が加熱されると種々の現象が生じることを示すだけであって、本願発明のようにブレーキライニングに必要な特性を示すものではないから、本願発明の成立とは無関係なものにすぎない。

第3  請求原因の認否及び被告の主張

請求原因1(特許庁における手続の経緯)、2(本願発明の要旨)及び3(審決の理由の要点)は認めるが、4(審決の取消事由)は争う。審決の認定判断は正当であって、これを取り消すべき理由はない。

1  相違点の看過について

原告は、本願発明が対象とする摩擦用ライニングが外気中で使用されるのに対し、引用例記載の発明が対象とする摩擦部材は油中で使用されるものであって、審決は両者が対象とするものが用途において相違することを看過していると主張する。

しかしながら、本願発明が対象とする摩擦用ライニングが外気中で使用されるものに限定されることは、その特許請求の範囲に記載ざれていないから、原告の上記主張は本願発明の要旨に基づかないものであって、失当である。

2  相違点の判断について

原告は、引用例記載のオーロンとダイネルも「初期可溶融性であるが、架橋結合性であり、それにより、使用の加熱条件下で保護殻を形成する」という性状を有するものと解されるとした審決の判断を争い、引用例にはオーロンとダイネルがそのような性状を有することは記載されていないと主張する。

しかしながら、「Polymer Bulletin 4巻5号」(1981年2月発行。以下、「乙第1号証刊行物」という。なお、乙第1号証刊行物は、原告が審判手続において提出したものである。)には、オーロンの素材であるアクリロニトリル重合体の性状について、「重合体に水を添加することにより融点を環状熱劣化の開始温度以下に下げる。水を添加すると、ポリアクリロニトリルの融点は320℃から185℃に下がる。湿状態と乾燥状態におけるアクリル系共重合体の融点は重合体結晶のEby形式で説明される。」(305頁)、「乾燥したPANの融点(Tm)は、ほぼ320℃であると推定された。1000℃/min以上の加熱率が使用されないと、この温度に達する前に重合体は劣化する。」(307頁)と記載され、宮崎義隆ほか著「プラスチック加工技術」(株式会社工業調査会1970年4月20日発行。以下、「乙第2号証刊行物」という。)の33頁「表2-6各種高分子の2次転移点(Tg)と融点(Tm)一覧表」には、ポリアクリロニトリルが317℃の融点を有することが記載され、また、松崎啓ほか訳「化学繊維Ⅱ」(丸善株式会社昭和46年1月20日発行。以下、「乙第3号証刊行物」という。)の462頁には、「モダクリル繊維の融点はかなりはっきりしている(たとえばDynelは約188℃で溶融し、…).」と記載されているから、アクリロニトリル重合体及び塩化ビニル-アクリロニトリル共重合体は、いずれも初期可溶融性を有することが明らかである。

また、神原周著「アクリロニトリル」(株式会社技報堂昭和34年9月20日発行。以下、「乙第4号証刊行物」という。)及び木戸猪一郎著「繊維材料各説」(三共出版株式会社昭和54年5月20日発行。以下、「乙第5号証刊行物」という。)には、ポリアクリロニトリルが加熱下で分子内環状化反応をして架橋結合することが記載され、乙第3号証刊行物の483頁及び484頁には、「塩化ビニル-アクリロニトリルコポリマーの熱変性は、(中略)130℃でポリ塩化ビニルに生じ始める脱塩酸反応がおそらくまず起こるであろう.(中略)より高温においては、アクリロニトリルモノマー単位の連鎖に起因する橋かけおよび環生成がおそらく生ずると考えられる.これらの反応はポリアクリロニトリルでは約200℃で始まる.」と記載されているから、アクリロニトリル重合体及び塩化ビニル-アクリロニトリル共重合体は、いずれも架橋結合性を有することも明らかである。

このように、アクリロニトリル重合体及び塩化ビニル-アクリロニトリル共重合体が初期可溶融性と架橋結合性とを有することは、本願優先権主張日前に広く知られていたのである。そして、そのような性状を有するアクリロニトリル重合体から紡糸されたアクリル系繊維であるオーロン、及び、塩化ビニル-アクリロニトリル共重合体から紡糸されたモダクリル系繊維であるダイネルが、加熱条件下においてはいずれも保護殻を形成することは当然である。

したがって、引用例記載のオーロンとダイネルは「初期可溶融性であるが、架橋結合性であり、それにより、使用の加熱条件下で保護殻を形成する」という性状を有するものと解されるとした審決の判断は、正当である。

第4  証拠関係

証拠関係は、本件訴訟記録中の書証目録記載のとおりであるから、これをここに引用する。

理由

第1  請求原因1(特許庁における手続の経緯)、2(本願発明の要旨)及び3(審決の理由の要点)は、いずれも当事者間に争いがない。

第2  そこで、原告主張の審決取消事由の当否を検討する。

1  成立に争いのない甲第2号証(特許出願公告公報)、第4号証(平成5年9月29日付け手続補正書)及び第5号証 (平成6年11月9日付け手続補正書)によれば、本願明細書には、本願発明の技術的課題(目的)、構成及び作用効果が次にように記載されていることが認められる。

(1)  技術的課題(目的)

本願発明は摩擦用、特にブレーキ、クラッチおよび他の用途用のライニングに関するものである(公報2欄20行、21行)。

従来、摩擦用ライニングに含有される有機繊維は、無機繊維の紡糸上の条件を改良するためのもので、ライニングの現実の使用のためには有害とみなされていた(同3欄4行ないし11行)。これは、有機繊維として不溶融型のものが選択されていたことによるのであって、このような有機繊維は、ライニングの温度が上昇した場合、液化せずに分解するので、多かれ少なかれ無機繊維の対向材料(例えば、ドラム)に対する侵害作用を緩和するが、ライニング自身の耐摩耗性を減ずる欠点を有する(同3欄11行ないし24行)。

本願発明の目的は、従来技術の欠点を改善し、特に耐摩耗性に優れた摩擦用ライニングを提供することである(同3欄25行ないし29行)。

(2)  構成

上記の目的を達成するために、本願発明は、その要旨とする構成を採用したものである(平成6年11月9日付け手続補正書3枚目2行ないし18行)。

(3)  作用効果

本願発明の必須の成分であるアクリル系及び/又はモダクリル系繊維は150℃から240℃までの軟化点を有するが、それ以上の温度で加熱すると、粘着性で流動性のある物質が生成され、これがライニング内部の空隙を満たす。これらの繊維は、相互分子の環化により強力な三次元網目構造を形成して、ライニング内部の緻密構造を増大させ、耐摩耗性と機械的強度を著しく改良する(平成5年9月29日付け手続補正書2枚目6行ないし14行)。

したがって、本願発明によれば、ライニングが高温条件下で対向物質と摩擦状態に置かれた場合、保護殻がライニング上に形成され、表面層の溶融が遅らされるため、摩擦される物質と接触する界面において多量の液相を生ずることが避けられる。逆に、摩擦界面から離れた層においては、有機繊維は大量に溶融するが、これは摩擦には全く影響しないのみならず、ライニング内部に存在する空隙を満たしてライニングを緻密化し、ライニングの耐摩耗性を向上することができる(平成6年11月9日付け手続補正書2枚目9行ないし15行)。

2  相違点の看過について

原告は、本願発明が対象とする摩擦用ライニングが外気中で使用されるのに対し、引用例記載の発明が対象とする摩擦部材は油中で使用されるものであるから、審決は両者が対象とするものが用途において相違する別個のものであることを看過していると主張する。

しかしながら、本願発明が対象とする摩擦用ライニングが外気中で使用されるものに限定されることは、その特許請求の範囲に記載されていないことが明らかであるから、原告の上記主張は本願発明の要旨に基づかないものであって、失当である。

のみならず、本願明細書の発明の詳細な説明においても、前記のように、本願発明が「摩擦用、特にブレーキ、クラッチおよび他の用途用のライニング」(公報2欄20行、21行)に関するものであると記載されでいるのであって、その摩擦用ライニングの用途は何ら限定されていない。そして、クラッチには乾燥状態で作動させる乾式のものと油中で作動させる湿式のものがあることが技術常識であることを考えれば、本願発明が対象とする摩擦用ライニングには油中で使用されるものも含まれると解さざるを得ないから、本願発明が対象とする摩擦用ライニングと引用例記載の発明が対象とする摩擦部材が用途において相違する別個のものであるということはできない。

よって、審決には原告主張の相違点の看過は存しない。

3  相違点の判断について

原告は、引用例にはオーロンとダイネルが「初期可溶融性であるが、架橋結合性であり、それにより、使用の加熱条件下で保護殻を形成する」という性状を有することが記載されておらず、かつ、そのような合成有機繊維を使用すれば外気中の厳しい条件下でも使用し得る摩擦用ライニングが得られることは示唆すらされていないと主張する。

成立に争いのない甲第6号証によれば、引用例には審決の理由の要点(2)において審決が認定した技術事項が記載されていることが認められる。

そこで、本願優先権主張日当時の技術常識ないし技術水準に基づいて引用例記載の技術事項につき検討すると、まず、成立に争いのない乙第1号証によれば、乙第1号証刊行物の「アクリル系ポリマー用の新規な熱分析技術」の項には、

a  「重合体に水を添加することにより融点を環状熱劣化の開始温度以下に下げる。水を添加すると、ポリアクリロニトリルの融点は320℃から185℃に下がる。」(305頁「SUMMARY」の2行ないし6行)

b  「乾燥したPAN(注・ポリアクリロニトリル)の融点(Tm)は、ほぼ320℃であると推定された。1000℃/min以下の加熱率が使用されないと、この温度に達する前に重合体は劣化する。」(307頁「RESULTS」の1行ないし4行)

と記載され、同じく乙第2号証によれば、乙第2号証刊行物の「第2章 構造用プラスチック材料の一般的性質 2-3熱的性質 2-3-1 2次転移点(Tg)と融点(TM)」の項には、

c  「鎖状の分子からなる高分子物質は、低温ではかたく脆いが、温度をあげると急激に柔らかくなる。(中略)それでこの温度を2次転移点(中略)またはガラス転移点といっている。」(32頁23行ないし27行)

と記載され、かつ、「表2-6各種高分子の2次転移点(Tg)と融点(TM)一覧表」(33頁)には、ポリアクリロニトリルの2次転移点が120℃、融点が317℃であることが記載されていることが認められる。

以上の記載によれば、ポリアクリロニトリルが約120℃に達すると急激に軟化し、約320℃で溶融する熱的性質を有することは、本願優先権主張日前の技術常識であるということができる(なお、乙第1号証刊行物は本願優先権主張日より後に頒布されたものであるが、その記載内容からみて、本願優先権主張日当時の技術常識を示すものと考えることができる。)。

また、成立に争いのない乙第3号証によれば、乙第3号証刊行物には、

d  「モダクリル繊維の融点はかなりはっきりしている(たとえばDynelは約188℃で溶融し、Verelは約210℃である).」(462頁図13.33の下12行、13行)と記載されていることが認められるから、モダクリル系繊維のダイネルが約188℃で溶融する熱的性質を有することも、本願優先権主張日前の技術常識であるということができる。

そうすると、引用例記載のアクリル系繊維であるオーロンと、モダクリル系繊維であるダイネルが、いずれも「初期可溶融性」を有することは、当業者ならば当然に理解し得た事項であることが明らかである。

次に、成立に争いのない乙第4号証によれば、乙第4号証刊行物には、

e  「Orlonは高温で熱処理すると良い安定性を示す。アイロンをくりかえしかけても変化しない。(中略)同様の糸は200℃で60時間加熱しても良好な性質を持っている。」(224頁3行ないし第46表の下1行)

f  「以上のごとき熱処理中におこる化学反応の機構について、はっきりした証明となるべきものはないが、生成物質が極めて熱安定性に富むことや、はげしい着色をおこす点より(中略)複素環の生成が考えられる。上の反応は脱水素反応であり、ピリジン環を生成する(中略)。」(224頁第46表の下9行ないし225頁第47表の下1行)と記載され、同じく乙第5号証によれば、乙第5号証刊行物の「3.ポリアクリロニトリル系繊維 3.1.3. 物性(3)熱に対する性質」の項には、

g  「加熱するとき約200℃までは熱分解を起こさないが、225℃で粘着し、250~325℃で軟化するが、溶融点は無くて分解炭化する。(中略)この間に分子内変化が起こり、水素が失われて塩基性基が現われ、最後には連続した環状構造になる。」(37頁2行ないし7行)と記載されていることが認められる。

以上の記載によれば、アクリル系繊維であるオーロンが高温下で分子内環状化反応をして架橋結合すること、及び、200℃以上の軟化状態で熱的安定性を有することは、本願優先権主張日前の技術常識であるということができる。

また、前掲乙第3号証によれば、乙第3号証刊行物の「14.モダクリル繊維」の項には、

h  「塩化ビニル-アクリロニトリルコポリマーの熱変性は、ポリ塩化ビニルおよびポリアクリロニトリルについて示唆された機構をおそらく含むであろう.130℃でポリ塩化ビニルに生じ始める脱塩酸反応がおそらくまず起こるであろう.(中略)分子間脱塩酸による橋かけもまた生ずると考えられる.より高温においては、アクリロニトリルモノマー単位の連鎖に起因する橋かけおよび環生成がおそらく生ずると考えられる.これらの反応はポリアクリロニトリルでは約200℃で始まる.」(483頁23行ないし484頁1行)

と記載されていることが認められるから、モダクリル系繊維が高温下の軟化状態において架橋結合性を有することも、本願優先権主張日前の技術常識であるということができる。

そうすると、引用例記載のアクリル系繊維であるオーロンと、モダクリル系繊維であるダイネルが、いずれも「架橋結合性」を有し、高温下における熱的安定性を有することは、当業者ならば当然に理解し得た事項であることが明らかである。

以上のとおりであるから、当業者であれば、その技術常識に照らし、引用例記載の前記認定の繊維は初期可溶融性であるが、架橋結合性であり、それにより使用の加熱条件下で保護殼を形成するものと当然に理解するといえるから、審決が一応の相違点と認定したことは実質的には同一であって、相違点に当たらないというべきである。したがって、「本願発明の「初期可溶融性であるが、架橋結合性であり、それにより、使用の加熱条件下で保護殻を形成する」という事項は、摩擦ライニングに含有されるアクリル系繊維及びモダクリル系繊維の有する単なる性状の限定にすぎない」とした審決の相違点の判断に誤りはない。

この点について、原告は、乙第1ないし第5号証刊行物は引用例とは全く無関係の独立したものであるから、これを援用して審決の正当性を維持することは新たな引用例を追加するものに他ならないと主張する。

しかしながら、特許法29条1項3号に規定する「刊行物に記載された発明」における刊行物に発明が記載されているといいうことは、出願当時(本願優先権主張日当時)に技術水準に基づいて当業者が当該刊行物(引用例)をみた場合において、その刊行物に容易に発明を実施し得る程度に技術事項が記載されていることを意味するものであり、引用例記載の技術内容を明らかにするための補助的資料として、審判手続において示されていない上記技術水準に関する資料を書証として提出することは、当該審決取消訴訟の審理範囲に含まれることであって、これが許されないとする法的根拠は存しないところ、乙第1ないし第5号証は上記事項の立証のために提出されたことが明らかであるから、原告の上記主張は理由がない。

また、原告は、乙第1ないし第5号証は、いずれも重合体が加熱されると種々の現象が生じることを示すだけであって、本願発明のようにブレーキライニングに必要な特性を示すものでないから、本願発明の成立とは無関係なものにすぎない旨主張するが、本願第1発明及び本願第2発明と引用例記載の発明との一応の相違点は、前記認定の引用例記載の繊維が「初期可溶融性であるが、架橋結合性であり、それにより使用の加熱条件下で保護殻を形成するもの」と明示されていない点にあるから、乙第1ないし第5号証に基づいて前記のように認定判断することに何らの問題も存しないことが明らかであって、原告の主張は理由がない。

4  したがって、審決の認定判断は正当として肯認し得るものであって、本願考案の新規性を否定した審決に原告主張のような誤りはない。

第3  よって、審決の取消しを求める原告の本訴請求は失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担及び上告のための期間附加について行政事件訴訟法7条、民事訴訟法89条、158条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 竹田稔 裁判官 春日民雄 裁判官 山田知司)

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