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横浜地方裁判所小田原支部 昭和57年(ワ)324号 判決

原告

城所博

被告

右代表者法務大臣

遠藤要

右指定代理人

長島俊雄

外五名

主文

一  原告の訴えのうち、別紙物件目録一の2記載の土地について所有権の確認を求める部分を却下する。

二  原告のその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は差戻前の第一、二審及び当審とも原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  別紙物件目録一ないし四の各2記載の土地がいずれも原告の所有であることを確認する。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の越旨に対する答弁

1  本案前の答弁

主文第一項と同旨。

2  本案の答弁

(一) 原告の請求をいずれも棄却する。

(二) 訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  別紙物件目録一ないし四の各1記載の土地(以下「本件本地(一)ないし(四)」あるいは同(二)ないし(四)を総称して「本件各本地」という。)は、明治初めの地租改正に際し、それぞれ亀井源左衛門、美野口権衛門、城所安五郎、蔵福寺の所有であることが確定したところ、同目録一ないし四の各2記載の土地(以下「本件係争地(一)ないし(四)」又は同(二)ないし(四)を総称して「本件各係争地」という。)は、畦畔であり、本地に対する従物(付帯物)の関係にあつて本地と一体をなしており、明治二二年ころまでに、地租改正関係法令によつて定められた手順により、本地が民有地となつたことに伴い、丈量されて旧土地台帳上外畦畔(ないし内畦畔)と記載されて、それぞれの本地である本件本地(一)ないし(四)の一部としてその所有者の所有となつた(その詳細は、後記五の原告の主張のとおりである。)。

2  以後、本件係争地(一)ないし(四)の所有権は、それぞれ本件本地(一)ないし(四)の所有権に伴つて移転し、原告は、本件係争地(一)については昭和一四年一二月六日家督相続により、本件係争地(二)ないし(四)については昭和二二年頃自作農創設特別措置法に基づく売渡しにより、本件本地(一)ないし(四)の所有権を取得したことに伴い、それぞれその所有権を取得した。

3  しかるに、被告は、本件係争地(一)ないし(四)が国有地であると主張して原告の所有権を争つている。

よつて、原告は、被告に対し、本件係争地(一)ないし(四)が原告の所有であることの確認を求める。

二  被告の本案前の主張

被告は、本件係争地(一)が原告の所有であることを認め、国有地であるとの主張をしない(原告は被告に対し、昭和五五年一月八日、取得時効援用の意思表示をし、同年二月四日被告は原告にこれを確認する文書をを交付している。)。したがつて、右土地について、原告は被告に対して所有権の確認を求める訴えの利益はない。

三  本案前の主張に対する認否

争う(原告は、昭和五六年四月一四日、錯誤を原因として本件係争地(一)の時効取得の登記の抹消登記手続きをした。)。

四  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実のうち、本件本地(一)ないし(四)が、地租改正に際し、それぞれ原告の主張する者の所有になつたとの点は不知。その余はすべて否認する。

2  同2の事実のうち、本件本地(一)ないし(四)の所有権の移転に関する事実は不知。本件係争地(一)ないし(四)の所有権移転に関する事実は否認する。

3  同3の事実のうち、本件係争地(二)ないし(四)につき、被告が国有地であると主張していることは認めるも、その余は争う。

五  本件係争地(一)ないし(四)の所有権についての原告の主張

1  畦畔は本地を維持するために不可欠の部分として主物である本地に対する従物(付帯物)の関係にあるから、本地の地種に属する土地の一部であつて独立の筆ではない。即ち、田の水保(水の保持)のための畦畔は上流の田の持主の所有であり、また、畑の耕作部分を維持するための畦畔はその裾の部分まで高地の畑の持主の所有である。

本件係争地(一)ないし(四)はいずれも畑である本件本地(一)ないし(四)を維持するための畦畔であるから、その一部として原告の所有に属するのである。

2  近代的土地所有権の成立は地租改正に関する諸法規の成果であるが、明治元年太政官布告第一〇九六号には、特定地その他公共性のある土地以外はすべて民有地と認める旨定められ、畦畔の所有権については、明治八年六月一五日指令で「畦畔ノ儀ハ其地須用ノ為メ設クルモノニシテ固ヨリ該地ニ所属」とされ、同九年八月二一日地理寮合評決判に「従来民有ノ耕地ニ附属必須不可欠ノ畦畔ハ該本地主ノ所有タルヘキ事理」とされた後、結局、同九年一一月一三日内務省達乙第一三〇号において「畦畔之儀改租丈量之際其歩数ヲ除キ候ハ収穫調査ノ都合ニヨリ候儀ニテ右ハ該田畑ニ離ルヘカラサルモノニ付官民有地ヲ論セズ其本地ノ地種へ編入シ券面外書ニ歩数登記スヘシ、但地租改正ノ際既ニ畦畔ヲ算セス丈量済ノ分ハ漸次本文之通改正スヘシ」と定められた。

右内務省達は、畦畔を丈量の対象から除外したのは収穫面からの配慮であつて、所有権の帰属は本地と一体であるから、地券には畦畔を外書とせよ、但し、未丈量であつても後日に本文と同様の手続をすることによつて民有地たることを認めるとの保証規定である。

地租改正においては、収穫のある本地だけを地価算出のための基礎面積とし、これを改租図上に地番を付して記載し、畦畔は収益のない免租地部分であるから課税部分である本地と区別するために番外として地番を付さなかつたものであつて、無番地の独立した土地ではない。改租図上、本地との間に引かれた黒線は、課税部分と区別するために引かれた畦畔線であり、地番を異にする地との間に引かれた筆界線とは異なるのである。

3  地租改正は根本準則たる中央法令を本旨としつつも、各地の実情に応じ、具体的には各県の管下に機関委任事務として行われたものであつて、全国一様の作業がされたものではない。

神奈川県の地租改正は、明治七年二月に着手され同一三年四月に整頓したとされているが、それは以下に述べるように税制面のみであり、土地の所有権の範囲は同一八年の畦畔取調ノ件に基づく畦畔丈量作業を経て、これが同二二年頃旧土地台帳に登載されるに至つてようやく確定したのである。

即ち、神奈川県においては、地租改正地図其他達書により、畦畔を除外して本地だけの丈量がされ(二条、五条)、畦畔は番外として地番が付されなかつた(六条)ため、明治一三年に発行された地券には本地反別が記載されただけで畦畔の外書はなく、また、同九年頃作成された改租図上に地番を付された部分は本地だけであつて畦畔は含まれず固有の着色をして残された。

しかし、その後明治一八年の地押調査ノ件あるいは畦畔取調ノ件により畦畔の丈量が行われ、本件係争地(一)ないし(四)についてもこの頃はじめて丈量され、明治二二年三月土地台帳法制定に伴い、旧土地台帳上それぞれ、外歩一五歩、外歩二畝八歩、外歩三六歩、外歩二畝二〇歩(但し、分筆前)として記載されるに至り、ここに畦畔の所有権帰属が確定すると共に本地の所有権の範囲も確定した。

その後、明治三二年新製登記簿には右旧土地台帳の記載が移記され、昭和三五年の不動産登記法改正に伴い旧不動産登記簿上の外歩は本地面積に合算された上、メートル法で表示されるに至つている。

4  右のように、神奈川県下では、本地だけが丈量されて改租図上地番が付され、畦畔部分は未丈量のため着色されて番外にあつたが、明治二〇年に地図更正ノ件、町村地図調製式及更正手続が定められ、県も同二一年一一月七日町村字限切絵図訂正順序(神奈川県達甲第七一号)を達し、地押調査による新図を調製したときは新図を基本にして改租図の誤謬を訂正すべきであるが、改租図で理解しうるときは新調に及ばない。いわゆる二線引畦畔線の片方は境界線であるからそのまま残し、他方の本地との区切りは実線であつたのを点線に改める。地図は一〇年毎に調製すべきことなどが定められた。

しかるに、前記のとおり、本件係争地(一)ないし(四)はその頃までに丈量されて旧土地台帳上外畦畔(ないし内畦畔)として記載されるに至つたが、改租図が右法令等に基づいて更正された事実は一切なく、本件係争地(一)ないし(四)付近の公図は右改租図がそのまま引き継がれたものであり、その結果、現在、不動産登記簿と公図との間に不整合を来たしているのである。

現に、本件係争地(一)ないし(四)の面積、形状は公図上本件土地(一)ないし(四)の地番の付されていない土地と符合するだけでなく、たとえば、旧鎌倉郡極楽寺村の実地畦畔反別取調帳には改租図にある番外の畦畔がそれぞれの地番に属する畦畔として地番、地形表示、計測値が記載されており、その畦畔地形、面積が旧土地台帳の外歩と完全に符合する。

六  被告の主張

1  本件各係争地はいずれも公図上地番の付されていない無番地の部分に該当し、かつ、旧土地台帳上の外畦畔、内畦畔とは異なり、田土地台帳及び不動産登記簿にも登載されていないので、国有地である。

2  なお、本件各係争地が国有地となつた経緯は次のとおりである。

明治政府は、納税義務者(所有者)を確定する必要から明治七年一一月七日「地所名称区別改定」を布告し、全ての土地を官有地(第一種ないし第四種)と民有地(第一種ないし第三種)に区分し、その際、土地所持者に申出を義務づけ、改租担当者が所有者と認定した土地(民有地)については地番を付し地券を交付したが、民有地以外の土地はすべて官有地として処理された(官民有区分)。

本件各係争地の属する旧足柄県における地租改正事業は、「地租改正地図調査其他達書」によつて明治八年一〇月本格的に着手され、旧足柄県が廃止されて神奈川県になつた後の明治一三年九月に完結した。

右達書は、地租改正事業に際して「地引絵図」、「地引帳」の作成方法を達したもので、これによれば、旧足柄県では、県庁へ差出す地引帳(正本)と村扣(副本)の二種類の地引帳の作成をその雛形を示して命じており、地引帳には一筆の面積(これには田畑の保持に必要な畦畔部分も含む。)から畦畔部分を図上計算(延長の長さを平均巾員に乗じて算出する。)しこれを控除して記載し、右控除した畦畔の面積は「村扣」の地引帳に一筆の外書として記載することになつていた(但し、右達による「村扣」は作成されない町村が多かつた。)。そして「地引絵図」には、一筆内の畦畔は記載されず、一筆の境界をなす畦畔のみが巾三尺以上、以内を問わず墨線で画かれ、隣接地との境界線とした。

このような地引帳、地引絵図作成の一連の作業は、現地の作業担当責任者の県担当官への伺、指令によつて統一的に処理されており、明治九年五月二〇日改正掛小牧克房の現地の作業担当者石井守次郎に対する指令の聞取、同年五月二三日「地租改正之義ニ付会議」における決定事項によれば、土地丈量に際して村内全地一筆毎の境界、面積、持主を確定するため、先ず、地引絵図の草稿を土地所有者に点検させ、面積に相違ある場合等においては直ちに役場に届出させ、一筆毎に畝杭を建てゝ官員の検査を受けた上、県に提出する「地引帳」「地引絵図」を清書することになつていた。

従つて、当時の村内土地所有者たちは、地引帳、地引絵図に記載された自分の所有地(畦畔も含む)の面積・境界の表示について何等異論がなかつたものと推定される。

前記のとおり田畑に付属する畦畔は本地に籠められて丈量され、改租絵図にも本地の地番を付して登載されたが、それ以外の畦畔、道路、井溝敷、堤塘、河川等の如き土地は前記地租改正地図調査其他達書第六条但書により「番外ニナシ置、」とされ、実地に丈量されず、すべて地引絵図上で計測され、後の地籍調査(明治一六年四月二〇日内務省達乙第一六号)に基づく同年八月一日神奈川県乙第一八一号郡区町村地籍編纂法に基づき「官有道路河川堤塘溝渠土手土揚敷等ノ類」として字ごとの合計反別が「道路其他取調書」に記載され、官有地であることが確定した。

前記のとおり本地の田畑に付属する畦畔は地引絵図上本地の中に籠められ、地番を付せられ、それ以外の畦畔は番外地として丈量されず、地引絵図に基づき作成された改租図上ネズミ色に着色され、周囲の地番のある地と墨線をもつて判然と区別されて表示されたのである。

一方、田畑に付属する畦畔は前記地籍編纂のための調査の際実地丈量され、その結果が旧土地台帳耕地一筆記載の外書に記載された。

本件各係争地は改租図上ネズミ色に着色され、周囲の地番のある地と墨線をもつて画されているから原告主張のような民有畦畔ではなく、前記番外地とされた官有畦畔である。

いかなる畦畔が官有畦畔とされたか現在においては不明であるが、自給経済が優位を占めていた明治期における一般農家には、草刈入会、馬入地等公共の利用に供され個人の排他的・独占的な利用及び占有が許されない部分があつたものと推定され、このような土地が官有道路・井溝敷・堤塘・河川等と共に官有地に編入されたものと考えられる。

3  従つて、旧土地台帳に登載されている原告主張の外畦畔は、本件各係争地(いわゆる無番地の二線引畦畔)ではなく、本件各本地内に含まれているものであるが、明治八年以来右原告所有地の地形も変化していると考えられるので、現在においては現地でその部分を特定することは不可能である。

第三  証拠〈省略〉

理由

第一本件係争地(一)の所有権確認について

右土地の所有権については、これが原告の所有であることにつき当事者間に争いがない。したがつて、本件訴えのうち、原告がこれについて所有権の確認を求める部分は訴えの利益がなく、不適法なものであるから却下すべきである。

第二本件係争地(二)ないし(四)の所有権について

一請求原因事実のうち、被告において本件係争地(二)ないし(四)が国有地であると主張して原告の所有権を否認していることは、当事者間に争いがない。

そして、〈証拠〉と弁論の全趣旨によると、本件各本地は、明治初めの地租改正に際し民有地であることが確定され、以後、数次にわたつて所有権が移転し、原告が昭和二二年頃自作農創設特別措置法に基づく売渡しによりその所有権を取得したものであることを認めることができ、この認定を覆すに足る証拠はない。

二原告は本件係争地(二)ないし(四)はいずれも畦畔であり、本地に対する従物(付帯物)の関係にあつて、本地と一体をなしており、明治二二年頃までに地租改正関係法令によつて定められた手順により、本地が民有地となつたことに伴い、丈量されて旧土地台帳上外畦畔(ないし内畦畔)と記載され、それぞれの本地である本件本地(二)ないし(四)の各一部として同本地の所有者の所有に帰した旨主張するので検討する。

〈証拠〉並びに弁論の全趣旨を総合すると以下の事実を認めることができる。

1  本件各係争地の形状、現況等

(一) 本件係争地(二)は原告が大正末期から畑として耕作するほぼ平坦な本件本地(二)に接し、その北側から西側にかけて存在する狭長な土地であり、その位置関係、形状は別紙図面(二)のとおりである。現況は、北側部分は北に面した傾斜地(土手)の上から裾までの部分で草地となつており、その土手裾から北側はほぼ東西に走る公道を挟んで隣地(畑)となつており、西側部分は原告が傾斜地であつたのを平坦地とし、右原告所有地と一括して畑として耕作しており、その西側は本件本地(二)とほぼ同じ高さの南北に走るコンクリート舗装の公道となつている。

(二) 本件係争地(三)は原告が同じ頃から畑として耕作するほぼ平坦な本件本地(三)の北側に存在する狭長な土地であり、その位置関係、形状は別紙図面(三)のとおりである。現況は、右本地の北側にあり、これと一括して原告が畑として耕作する部分及びその北側にある北に面した傾斜地(土手)の上から裾までの部分とからなつており、その傾斜地部分は草地で、土手裾の北側は隣地(畑)となつている。右係争地の東側は南北に通るコンクリート舗装の公道となつており、西側は南北に通るあぜ道である。

(三) 本件係争地(四)は原告が昭和一五年頃から畑として耕作するほぼ平坦な本件本地(四)の東、南、西側にこれを囲む形で存在する狭長な土地で、その形状は別紙図面(四)のとおりである。現況はそれぞれ東、南、西に面した傾斜地(土手)の上から裾までの部分で、草地となつており、いずれも土手裾から先は公道となつている。

2  本件各本地及び本件各係争地の面積等

(一) 本件本地(二)の地積は、不動産登記簿上一〇七四平方メートル、旧土地台帳上は八畝一七歩(約八四九・五九〇六平方メートル)、外歩二畝八歩畦畔(約二二四・七九四平方メートル)と記載されており、原告がした実測によると、右本地は約八〇二・〇〇四七平方メートル、被告の実測によると本件係争地(二)は約一九一・三二〇〇平方メートルである。

(二) 本件本地(三)の地積は、不動産登記簿上四一九平方メートル、旧土地台帳上は三畝一一歩(約三三三・八八五八平方メートル)、外歩二六歩畦畔(八五・九五〇八平方メートル)と記載されており、原告がした実測によると、右本地は約三八五・三二五平方メートル、被告の実測によると本件係争地(三)は約一〇七・〇四平方メートルである。

(三) 本件本地(四)の地積は、不動産登記簿上六〇四平方メートル、旧土地台帳上は、六畝三歩(約六〇四・九六一四平方メートル)、内歩一畝一〇歩畦畔(約一三二・二三二平方メートル)と記載されており(ちなみに昭和二五年にされた分筆前の同所六三一番の土地の旧土地台帳上は九畝一六歩、外歩二畝二〇歩畦畔との記載がある。)、原告がした実測によると、右本地は約三八九・八八七五平方メートル、被告の実測によると本件係争地(四)は約一六九・九一平方メートルである。

以上の事実を認めることができ、この認定を覆すに足る証拠はない。

右認定事実によると、本件係争地(二)ないし(四)は、現況においておゝむねいずれも高地の畑である本件本地(二)ないし(四)に隣接し、これを支持する土手の傾斜面でいわゆる畦畔であること、右各本地の地積は、本件本地(二)及び(三)についてはいずれも旧土地台帳上の本地面積と外畦畔面積を合算した面積が不動産登記簿上の地積に符合し、本件本地(四)については、旧土地台帳上の本地面積が不動産登記簿上の地積に符合することが認められ、この認定を覆すに足る証拠はない。

そして、〈証拠〉によれば、明治八年頃、本件各係争地の属する旧足柄県においては、高所にある耕地の崩落を防止するため隣接低地に対し設けられた土手は上手耕地に付属すると一般に観念されていたことが認められ、この認定を覆すに足る証拠もない。

三1  しかしながら、〈証拠〉及び弁論の全趣旨を総合すると、本件係争地(二)ないし(四)は明治初め頃作成された地引絵図に基づき作成されたと認められる大絵図(改祖図、以下同じ)及びその後右改租図に基づき作成された土地台帳付属地図である公図上、いずれも本件本地(二)ないし(四)と実線をもつて画され、地番が付されていない土地であること、また、本件各本地の地券にはいずれも畦畔の外書がないことが認められ、この認定を覆すに足る証拠はない(本件各係争地がいずれも地番の付されていない土地と範囲を同じくすることについては当事者間に争いがない。)。

2  その上、〈証拠〉を総合すると、以下の事実が認められる。

(一)  本件各畦畔の属する旧足柄県における地祖改正事業は、「地租改正地図調査其他達書」によつて明治八年一〇月頃本格的に着手されたが、前記のとおり明治八年頃旧足柄県においては高所にある耕地の崩落を防止するため隣接低地に対し設けられた土手は上手耕地に付属するものと一般的に観念されていたので、地租改正事業の実施担当者はこの観念に基づき右土手を上手耕地一筆内にとりこむ措置をとり、地引絵図には右土手と低地にある耕地との間に墨線で境界線を引いた、即ち、地祖改正事業の実施に当たつて土地丈量を行い、村内全地につき一筆ごとの境界、面積、持主を確定し、これを「地引帳」、「地引絵図」に登載する作業は民間の手で行われ、官員の検査を受けるため、村吏が地番の付された地所一筆ごとに、面積、田畑の枚数、持主名を記載した畝杭を建て、先ず土地所有者に点検させ、もし面積に相違がある場合はただちに役場に申出させ、持主に異論がなければ、一筆ごとに付した地番を確定させ、地引帳及び地引絵図に記載した。

旧足柄県では地租改正事業実施当時耕地に付属する畦畔も丈量され、村扣地引帳にそれが付属する本地の外書として記載されることになつていたが、実際には、現地で右畦畔の丈量を行わない町村が多く、分間絵図(一筆ごとの丈量の結果を一定の縮尺によつて画いた地引絵図の基礎となる図)上右畦畔の延長の長さと平均巾で面積を算出し、地券には右算出にかゝる畦畔の面積を控除した面積を本地の面積として記載した。

その後、明治一〇年六月二三日神奈川県丙第一九四号達で改めて地籍編纂が達せられ、明治一六年四月二〇日内務省は達乙第一六号で改正した地籍雛形を達し、神奈川県は、これに基づき、同年八月一日乙第一八一号「郡区町村地籍編纂法」を達し地籍編纂を命じた。この地籍調査手続において田畑に属する畦畔につき実地丈量が行われたが、その結果面積が明らかになつた畦畔は、それが付属する本地と共に町村地籍帳に記載された。そして、この地籍帳は達によりその後の土地の変化を記入し、常に現状を正確に示す台帳としての性格を与えられていたが、明治一七年三月一五日太政官布告第七号地租条例が達せられ、明治一八年三月土地台帳(および付属公図)編製のための地押調査が実施され、明治二二年地券廃止、土地台帳の編製によつて、地籍帳の台帳としての性格が失われたが、右地押調査は地租改正時の誤謬訂正と地租改正後の土地の合筆、分筆、地目変更等によつて生じた公薄・公図と実地との齟齬を解消するために行われた実地検査事業にとどまり、そのような齟齬がなかつた耕地付属の畦畔については、前記明治一六年地籍調査で実施された丈量結果が旧土地台帳上耕地一筆記載の外書として記載された。

一方耕地付属の畦畔として地引帳に記載されず、地引絵図上地番が付せられず、周囲の地番のある地所と墨線の境界によつて判然と区画された畦敷、道路、井溝敷、堤塘、河川等は明治八年一〇月の地租改正地図調査其他達書六条但書により「番外ニナシ置、」とされた土地で、前記地籍調査の際も実地に丈量されず、すべて「以曲尺一分擬一間」の縮尺で作成された地引絵図上で計測され、前記乙第一八一号「郡区町村地籍編纂法」の達に基づき「官有道路・河川・堤塘・溝渠・土手・土揚敷等の類」として字ごとの合計反別が「道路其他取調書」に掲載され、官有地であることが確定した。

右「道路其他取調書」に記載された無番地官有地は地籍帳にも記載されたが土地台帳編製時に総括的な官有地台帳は作成されず、後に必要に応じ、道路台帳、河川台帳などが作成されたが、本地の付属地として耕地一筆内にとりこまれなかつた畦畔については改租図と字図(土地台帳付属公図)によつて知る他はない状況にある。

(二) 前記官有無番地は「地引絵図」上地目に応じて色分けされ、明治八年一二月の県官「演述」に対する地租改正事務局員「回答」の第三条によれば、道は朱色、川、溜井は藍色、堤塘は薄茶色、その他は着色せずと定められ、県庁に提出する「地引絵図」の清書に先立つ、明治九年六月二一日前記事務局員の「回答」にある「分色表」に拠った「分色表」が旧足柄県内の村々に回達されたが、現存している旧足柄県管下の改租絵図を見ると「無地番」の地のうち右の無着色(畦敷その他)に該当する部分は薄ネズミ色に着色されており、本件係争地も右地引絵図上薄ネズミ色に着色されている。

以上の事実が認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

3 前記認定の諸般の事実、特に、改租図の基となつた前記地引絵図に記載された民有地の面積、境界の表示については当時その持主において異論がなかつたものであり、従つて本件各本地が記載されている改租図上黒線で区画された土地が本件本地(二)ないし(四)とそれに付属する畦畔を含めた土地であることを当時の右各土地所有者は承認していたものと推認されること、前記認定の地租改正の沿革地籍調査及び旧土地台帳編製の沿革等を合わせ考えると、本件各係争地は右地租改正地図調査其他達書六条但書による扱いを受け、結局、官有地(国有地)として確定した土地と推測され、本件各原告所有地の旧土地台帳上の外畦畔、内畦畔は現在の各原告所有地内に存在した、右官有地と確定した土地とは別の、右田畑付属の畦畔が丈量された上記載されるに至つたものと推測される。

4 ところで、本件各係争地の地形、現況等は前記二1で認定したとおりであり、現在本件各本地内にはいずれも畦畔らしきものは存在しないが、右の畦畔丈量がされた当時の右各本地の地形等を明らかにする証拠はないから、当時右各本地内に畦畔が存在しなかつたと断定することはできない。

また、本件各本地、本件各係争地の面積等は前記二2で認定したとおりであるけれども、本件各本地の旧土地台帳に記載されている外畦畔ないし内畦畔が本件各係争地を丈量した結果を登載したものであることを直接示す証拠(たとえば地図、帳簿等)はなく、しかも、〈証拠〉によると、本件各係争地付近の土地についても、たとえば、伊勢原市桜台二丁目三一九番の土地については、旧土地台帳上外畦畔二歩(約六・六平方メートル)の記載があるが、これに接するかつて公図上無番地であつた狭長な土地は実測約五九・〇二平方メートルもあり、同所三一三番の土地の旧土地台帳には外畦畔一一歩(約三三平方メートル)の記載があるが、これに接するかつて公図上無番地であつた土地は実測七二平方メートルもあり、また、同所三一六番の土地は、旧土地台帳上外畦畔一一歩(約三三平方メートル)の記載があるが、これに接するかつて公図上無番地であつた土地は実測約二二平方メートルしかないこと(なお、右各土地は、時効取得により国から本地の所有者の所有に属し、新たに地番が付されている。)が認められ、また、〈証拠〉によると、本件各係争地に近い神奈川県足柄上郡開成町牛島字上原六〇番、同所字南下二六六番、南足柄市狩野字馬場四八八番、同所四七八番の土地などはいずれも旧土地台帳上外畦畔の表示はあるが公図上無番地の狭長な土地に接していないことが認められ、これらの認定を覆すに足る証拠はない。

そうすると、本件各係争地付近において、公図上無番地の狭長な土地と、隣接地の旧土地台帳上の外畦畔とが一般に対応関係を持つものと断定することはできない。

従つて、本項で認定した事実に照らして考えると、前記二認定の事実をもつてただちに、本件本地(二)ないし(四)の旧土地台帳上に記載された外畦畔ないし内畦畔がそれぞれ本件係争地(二)ないし(四)にあたるとまで推認することはできない。

なお、原告は、いずれも原本の存在及び成立に争いのない甲第五二号証の一のイないしヘ、いずれも成立に争いのない甲第五二号証の三の(イ)ないし(タ)に加え甲第五二号証の二の(イ)ないし(ニ)を援用し、たとえば旧鎌倉郡極楽寺村の実地畦畔反別取調帳には改租図にある番外の畦畔がそれぞれの地番に属する畦畔として地番、地形表示、計測値が記載されており、その畦畔地形、面積が旧土地台帳の外歩と符合する旨主張する。

しかしながら、右甲第五二号証の二の(イ)ないし(ニ)(実地畦畔反別取調帳)が、何日、何人によつてどのような目的で作成されたのか明らかでなく、仮に右取調帳が改租事業の実地担当者により作成されたとしても、右取調帳に鎌倉郡極楽寺村の改租大絵図(甲第五二号証の一の(イ)ないし(ハ))並びに公図(甲第五二号証の一の(ホ)及び(ヘ))を照らし合わせると、右取調帳に記載されている畦畔の地形等が公図上の地番を付されていない(あるいはかつて付されていなかつたと推測される)土地の地形と全く符合しているとはいえないし、前掲甲第一二八号証の一によれば、明治九年四月頃まで本件係争地は旧足柄県に、旧鎌倉郡は旧神奈川県に属しており、それぞれ異つた地方法令に基づき独自に壬申地券交付、地租改正事業が進められていたことが認められるから、旧鎌倉郡極楽寺村の事例を直ちに本件係争地及びその付近の改租絵図に当てはめて考えることは相当でない。

従つて、原告の右主張は採用することができない。

四また、原告は、本件各係争地が登載されている公図の記載は誤つているとし、中央官庁で明治二〇年に地図更正ノ件(明治二〇年六月二〇日大蔵大臣内訓第三八九〇号)、町村地図調製式及更正手続(明治二〇年七月一三日福島県知事訓令甲第二五〇号)が定められ、また、神奈川県で明治二一年一一月字限切絵図訂正順序が達せられた結果、改租絵図上本件各係争地と原告所有地との間にある区切りの実線は点線に改められることとなつたが、右の訓令や達に基づく訂正が実施されないまゝ改租図がそのまゝ公図に引継がれている旨主張する。

しかしながら、右に検討したとおり、本件係争地(二)ないし(四)がそれぞれ本件本地(二)ないし(四)の所有者の所有に帰した畦畔であるとは認められないのみならず、右各法令等が官有無番地となつた畦畔とそれに隣接する耕地との間の改租図、公図上の区切り実線を点線に改める旨を定めたものとは到底解することができない。

五次に原告は本件係争地(二)ないし(四)がそれぞれ本件本地(二)ないし(四)の所有者の所有に帰したとする根拠として、明治九年一一月一三日内務省達乙第一三〇号等の法令の存在を指摘する。

しかし、右内務省達(その内容は成立に争いのない甲第一二号証により、原告主張欄記載のとおりのものと認められる。)は畦畔について地券の「券面外書ニ歩数登記スヘシ」と定めているにも拘らず、〈証拠〉、弁論の全趣旨によれば、明治一三年頃交付されたと推測される本件各本地の地券に畦畔の外書がなされなかつたものと認められ、この認定を覆すに足る証拠はないから、右法令を根拠に本件係争地(二)ないし(四)の所有権がそれぞれ本件本地(二)ないし(四)の所有者に帰したとする原告の主張は理由がない。

六以上に検討したとおり、本件本地(二)ないし(四)の旧土地台帳上に記載された外畦畔ないし内畦畔がそれぞれ本件係争地(二)ないし(四)にあたるとの原告の主張については、これを認めるに足る証拠がなく、その他本件全証拠を検討しても、本件各係争地が原告の所有であることを認めるに足る証拠はない。したがつて、本件各係争地が原告の所有であることの確認を求める原告の請求は理由がない。

第三結論

以上の次第であつて、原告訴えのうち、本件係争地(一)について所有権の確認を求める部分は訴えの利益を欠く不適法なものであるからこれを却下することとし、その余の請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官元吉麗子 裁判官日浦人司 裁判官端 二三彦)

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