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熊本地方裁判所 平成4年(わ)371号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

第一  本件公訴事実及び争点

一  本件公訴事実の要旨は、「被告人は、本件犯行前一〇年内に三回、六月の懲役以上の刑の執行を受けた者であるが、更に、常習として、窃盗の目的で、平成四年九月二四日午前零時四五分ころ、熊本市弥生町〈番地略〉所在の本田康弘方六畳間において、手提げバッグを物色中、同人に発見されたため逃走し、その目的を遂げなかった。」というものである。

二  本件の争点

1  第三回公判調査中の証人本田康弘の供述部分(以下「康弘供述」という。)、当裁判所の検証調書(以下「検証結果」という。)及び警察官作成の実況見分調書(甲7・同意部分)(以下「実況見分調書1」という。)によれば、公訴事実記載の日時に、何者かが、公訴事実記載の康弘方に侵入し、手提げバッグを物色中、康弘に発見、誰何され、何も取らずに逃走する事件(以下「本件犯行」という。)が発生したことを認めることができる。

2  検察官は、

(一) 康弘及び康弘の指示で犯人を途中まで追跡した康弘の長男本田安識の目撃した犯人の特徴が被告人と合致していること、また、被告人といわゆる面通しをさせたところ、康弘は被告人が犯人と似ている旨、安識は被告人が犯人に間違いない旨述べていること、

(二) 安識の通報により犯人の逃走した方面に急行した警察官が、本件犯行から約一五分後に、康弘方から、犯人の逃走した方向である東北東へ直線距離にして約二八五メートルの地点にいる被告人を発見したこと、その際、被告人は背中に異様な汗をかくなどしていたこと、

(三) 被告人には、窃盗、常習累犯窃盗等の前科九犯があるところ、その手口が、本件犯行のそれと共通することなどを根拠に、被告人が本件犯人である旨主張する。

3  これに対し、弁護人は、被告人は本件犯行とは無関係で、本件犯人ではない旨主張し、被告人も、捜査段階から一貫してこの主張に沿う供述をするので、以下、検討する。

第二  康弘、安識の犯人目撃状況

一  康弘の犯人目撃状況

1  康弘供述、検証結果、実況見分調書1によれば、次のような事実が認められる。

(一) 康弘は、本件犯行当日の平成四年九月二四日午前零時四五分ころ、飲酒の上、就寝しようとして自宅一階の三畳間のベッドに横たわってまどろんでいたところ、人の気配を感じたので、ベッドから上半身を起こし、廊下を隔てた六畳居間を覗いて見ると、居間のソファーの前に男が立ち、手提げバッグを物色しているのを目撃した。この時、照明は、六畳居間の蛍光灯の豆球一個が点灯しているのみの状態で、康弘は、その男(犯人)を、約三・六メートルの距離で、犯人のやや左斜め後方から目撃した(第一の目撃)。

(二) そこで、康弘が「ぬしゃ、誰か、なんしよっとか。」と叫んだところ、犯人は六畳居間から康弘の方へ向かって廊下に出た。この時、康弘は、六畳居間から出て来て康弘の方を向いた犯人を、六畳居間の蛍光灯の豆球の明かりにより逆光線の状態で、約二・一メートルの距離で目撃した(第二の目撃)。

(三) 更に、犯人は、康弘の前を駆け抜けて自宅北東角の塾の教室として利用されている部屋(以下「教室」という。)の方へ走って行き、教室の北側窓から外へ出た。この時、康弘は、廊下に出て犯人を追跡し、教室の窓から外へ出る犯人の姿を「ちょっと見たような感じ」で目撃した(第三の目撃)。

(四) 康弘が、その窓から外を覗くと、隣家の玄関付近でしゃがんでいる犯人の姿を目撃したが、身長、体格及び髪型についてはよく判らなかった(第四の目撃)。

(五) 第一の目撃から第四の目撃までの時間は約一〇秒で、康弘は当時裸眼であり、その視力は左右それぞれ〇・四か〇・五、両眼では〇・七程度である。

2  康弘は、このような目撃の結果、犯人の特徴について、年齢は四〇歳過ぎくらい、身長は自分の身長(一六七・七センチメートル)よりもやや高く、普通の髪型で、背広を着ており、その色ははっきりは分からないが暗やみではグレー系統に見え、逃走態様からして、相当足が強い感じで、体格は、スポーツをやっている自分と同じく、がっしりした感じだったと述べ、逆光で、かつ、一瞬ではあるが、顔の輪郭も分かった旨供述する。

3  そして、康弘供述、第六回公判調書中の証人小林圭二の供述部分(以下「小林供述」という。)によれば、康弘による面通しの状況について、次のような事実が認められる。

(一) 康弘は、本件犯行当日の午前一時過ぎころ、犯人が捕まったから署まで来てくれといわれ、熊本南警察署において、警察官から、無理して断定しなくてもよいが、犯人と似ているか、似ていないか、正直に感想を述べてくれと告げられた上、透視鏡を通して被告人一人を見せられた。その際、被告人の服装はベージュの背広上下であり、正面向きや後向きにするなどして実施され、その結果、康弘は、悩んでいる素振りもなく、すぐに、背広を着用していたこと、体格、身長、顔の感じなどから、断定はできないが、この男に間違いないという趣旨の供述をした。

(二) また、同年一〇月七日にも、同様の方法で面通しをし、同様の供述をした。

4  ところで、検証結果によれば、康弘の第一の目撃の視認状況は、視野をさえぎるものはないが、薄暗い状態で、犯人が上着を着用していることは識別できるが、上着の色合いの識別は困難であり、その色の濃淡については、黒か否かの識別が可能な程度であり、犯人の身体の輪郭は不明瞭ではあるが識別可能という程度のものであり、また、第二の目撃の視認状況は、犯人が六畳居間の蛍光灯の豆球の明かりを背後から受けて逆光線になるため、犯人は黒いシルエットとして見え、着用している服の色合い、濃淡の識別は困難であるが、身体の輪郭は比較的明瞭に識別できるという程度のものである。

二  安識の犯人目撃状況

1  一方、第四回公判調書中の証人本田安識の供述部分(以下「安識供述」という。)、検証結果、実況見分調書1によれば、次のような事実が認められる。

(一) 安識は、自宅南東角の子供部屋で勉強中、康弘に呼ばれ、教室の入口付近にいた康弘の方に向かったところ、康弘から、泥棒を追えという趣旨のことを告げられ、教室の北側窓から自宅北側に隣接する小島英俊宅の玄関先を通って通りに出、北の方向を見ると、走って逃走する犯人の後ろ姿が見えた。この時、安識と犯人との距離は約三四メートルで、安識は、立ったまま、約一、二秒目撃した(第五の目撃)。

(二) そこで、安識は、その犯人を追跡したが、犯人は、その直後に、小島英俊宅と通路をはさんで東側にある小島晶宅先を右折して路地に入り、その先の金網フェンスを乗り越えて走り去ったので、追跡をやめた。この時、安識は、金網フェンスの向こう側にいる犯人を約一〇メートルの距離から目撃した(第六の目撃)。

(三) 安識の視力は、左右とも、一・五ないし二・〇である。

2  安識は、このような目撃の結果、犯人の特徴について、年齢は、自分と同じ速さで逃げていったので、三〇歳代に見え、身長は、自分と同じくらいで一七〇センチメートル、髪型は普通で、服装は、街灯の明かりにぴらぴらしたものが見えたので背広上下であり、その色はグレーでちょっと薄いものに見えた旨供述する

3  そして、安識供述、小林供述によれば、安識による面通しの状況について次のような事実が認められる。

(一) 安識は、犯人が捕まったとの連絡により、本件犯行当日の午前二時半ころ、康弘と入れ代わりに熊本南警察署に呼ばれ、警察官から無理して断定しなくてもいい旨、また、「間違いない。よく似ている。まあまあ似ている。似てない。」のランクで答えるように告げられた上、透視鏡を通して被告人一人を見せられた。その際、被告人の服装はベージュの背広上下であり、被告人に立たせて後を向かせるなどして実施され、その結果、安識は、後ろ姿の全体的印象に関しては、間違いないというレベルとよく似ているというレベルとの中間という印象を受け、「間違いない」旨の供述した。

(二) また、同年一〇月一三日にも、検察官から「あなたの供述次第で被告人が犯人として処罰されるかもしれない。」旨注意された上で同様に面通しをし、後ろ姿の全体像が似ているという意味で、間違いない旨の供述した。

4  ところで、検証結果によれば、第五の目撃の視認状況は、視野をさえぎるものはないが、その時犯人がいた付近は街灯の明かりのみの薄暗い状態で、犯人の着用している服の色合いや、色の濃淡の識別は困難であるが、犯人の身体の輪郭は概ね識別できるという程度のものであり、犯人が北の方向に走って、安識に発見された地点を通過し、東の方向に曲がって小島晶宅のかげに隠れるまでの間は、犯人の姿が、街灯の明かりに照らし出され、上着のすそが後方にふくらみ、かつ、揺れて、犯人が背広様の服を着ていること、その色の濃淡及び身体の輪郭については、識別可能となるが、服の色合いは識別が困難であるという程度のものである。

第三  両名の目撃供述の信用性ないし証拠価値

一  目撃供述について

1  康弘の目撃内容

康弘の目撃のうち、第三の目撃及び第四の目撃は、それ自体、識別供述としては価値が認められない。

また、第一の目撃及び第二の目撃も、康弘の視力、当時飲酒の上就寝直後の「まどろむ」状態から覚せいした状態であったこと、犯人を追跡する際、家のどこかに、横腹をぶつけるなどしていることからもうかがえるように、ある程度気が動転していたと考えられること等の事情に照らし、目撃状況が良好とはいえない上、検証結果に鑑みると、犯人が上着を着用していたこと及び犯人の身体の輪郭を比較的明瞭に識別できたという程度のものにとどまると評価すべきである。

2  安識の目撃内容

これに対し、安識は、視力がよく、追跡している犯人を見失わないように意識して観察していたことなど、目撃に良好な条件も認められるが、他方、夜間、屋外であり、対象との距離が約三四メートルと遠かったこと等の事情に照らせば、同様に目撃条件が良好とはいえず、検証の結果に鑑みると、安識が識別できたのは、犯人が背広様の服を着ていたこと及び犯人の身体の概ねの輪郭の程度にとどまると評価すべきである。

3  両名の目撃供述の信用性ないし証拠価値

以上によれば、康弘及び安識が犯人の特徴として挙げるもののうち、ある程度、目撃が正確に行われ、信用性ないし証拠としての価値が認められると考えられるのは、康弘の供述については、犯人が身長一七○センチ位、体格はがっしりした感じで、普通の髪型をし、背広を着用、相当足が強い感じであるという諸点、安識の供述については、犯人が身長一七○センチ位、髪型は普通で、服装は背広上下という諸点である。そして、これらは、犯人をその他の人物から区別する指標としては不十分であるといわざるを得ない。すなわち、例えば、背広を着用していることが犯人の特徴であると言っても、背広を着用するのが例外的であるというような状況が存在しない限り、背広を着用している者が犯人であっても矛盾はしないということができるに止まり、それ以上積極的に、その者を犯人であると特定することはできないところ、本件において、そのような例外的な状況が存在したことは認めることができない。また、その他の特徴、すなわち、体格はがっしりした感じで普通の髪型、相当足が強い感じであるという諸点も、犯人を特徴づける指標としては曖昧であって、不十分であるといわざるを得ない。

二  面通しの際の両名の供述について

本件の面通しの状況をみると、一方で、目撃からさほど時間が経過していない時点で行われていること、各目撃者毎に単独で行われていること、警察官あるいは検察官から、事前に、無理に断言しなくてもよい旨の告知がなされていることなど、面通しを行った際の目撃者の供述の信用性ないし証拠価値を補強する事情も認められる。

しかし、他方、本件の面通しが、犯人が捕まったから来てほしいとの警察からの連絡によりなされていること、いわゆるラインアップ方式ではなく、被告人一人を面通しする方式によりなされていること、康弘及び安識が犯人の特徴として明確に指摘していた背広を着せてなされていること等の事情を考慮すれば、康弘及び安識が、面通しされた被告人が犯人であるとの相当強い暗示を受けていた可能性が否定できず、したがって、面通しの際の康弘らの供述の信用性ないし証拠価値の評価については、慎重を期する必要があるというべきである。

そして、康弘及び安識の目撃内容が、既に述べてきたようなものに留まる以上、面通しをされた被告人が犯人に間違いない旨の安識らの供述の信用性ないし証拠価値は、相当低いといわざるを得ず、被告人が犯人であっても目撃内容と矛盾しないという程度に留まると評価すべきである。

三  話し合いの可能性について

なお、検察官は、独立した二名の目撃者が、異なる位置で、異なる犯人の姿勢を目撃しているにもかかわらず、一致した目撃供述をしており、目撃の正確性を相互に補強している旨主張するが、康弘供述、安識供述によれば、本件犯行当日、安識が警察に通報した後、康弘と安識は、犯人の背広の色やその年齢について話し合った事実が認められ、また、目撃者二人が親子であることからその他の事柄についても話し合った可能性は否定できず、これらの事実に照らせば、検察官主張のように二つの目撃供述が相互に補強しているとは言いにくく、却ってこれら目撃供述の信用性ないし証拠価値を下げているといわざるを得ない。

四  結局、康弘及び安識の目撃供述や面通しの際の供述は、いずれも被告人と本件犯行とを結び付けるものとしては脆弱なものといわざるを得ない。

第四  被告人が職務質問を受けた状況

一  証人木村九州男及び同牛之濱俊哉の当公判廷における各供述、第五回公判調書中の浦山潮の供述部分(以下「浦山供述」という。)、小林供述、警察官作成の一一〇番通報処理票謄本及び実況見分調書各二通、熊本地方気象台長作成の捜査関係事項照会回答書によれば、次のような事実が認められる。

1  前記第二の二1(二)の通り、犯人の追跡を諦め、直ちに帰宅した安識からの通報が、本件当日の午前零時四七分、熊本南警察署に入り、同署の警察官浦山潮及び同小林圭二がパトカーで出動し、途中、無線で、犯人の年齢は四〇歳くらい、身長は一七〇センチメートルくらい、がっちりとした体格で、服装はグレーの背広上下、本荘小学校方面(被害者宅からみて北東方向)へ徒歩で逃走した旨の情報を得たことから、直接被害者宅へは向かわず、被害者宅北側の幹線道路を利用して東方の本荘方向に回り、途中から市道を南下したところ、同日午前一時ころ、被害者宅から東北東の方向に直線距離にして約二八五メートルの地点にある同市本荘六丁目一二番二三号所在のコーポ久駒荘敷地から出て、市道を島田葬儀社の方へ南下しながら歩いている被告人を発見した。

2  浦山は、この時、被告人が無線で得た犯人の特徴に合致するように見えたため、また、背中の中央付近と肩甲骨のあたりの服の布が濡れて肌にくっついている感じに見え、顔にもうっすらと汗がにじんでいたことから、背中に異様な汗をかいているように見えたため、被告人に対し、職務質問をした。

3  これに対し、被告人は素直に自己の二級ボイラーの免許証を出し、ボイラーの仕事を探してくれた友達の家を探していたところである旨は答えたが、その知人の名前はどうしても言おうとしなかった。

4  当時、被告人は、ゴム製滑り止め付きの薄い白色布製手袋一双(平成五年押第四二号の1)をズボンの後ろポケットに所持しており、所持金は四、五百円程度であった。

5  なお、被害者宅から被告人が発見された場所まで、最短経路をとると、四三一メートル、通常の歩行で五分三五秒で到達できる地点、合理的に考えられる最長の経路を辿ったとしても通常歩行で一〇分以内の地点である。

また、当時の気温は摂氏二五・九度、湿度は七一パーセントであった。

二  1 検察官は、本件犯行から近接した時点に、近接した場所で被告人が発見されたことをとらえ、被告人と本件犯行を結びつける一つの根拠として主張し、本件犯行から約一五分後に、本件現場からさほど離れていない地点で発見された点についても、現場付近は住宅地であり、道が入り混んでいることから、本件現場付近の地理に不案内な被告人が、犯行から約一五分後にも、発見地点付近を徘徊していても、何ら不自然はない旨主張する。

2 しかし、本件犯人は、家人に発見され追跡を受けたことは十分承知しているのであるから、その後直ちに家人により警察に通報され、程なく警察官が現場付近に駆け付けるであろうことは容易に想像できたと考えるのが相当であり、そうだとすれば、可及的速やかに現場付近から遠ざかるというのが、本件犯人にとって合理的な行動と考えられる。

そうしてみると、犯行から約一五分後に、犯人が、犯行現場から、通常の歩行で五ないし一〇分程度の場所に留っていたことは、不自然といわざるを得ない。

3 そして、そもそも犯人が北東方向に向かったというのは、本件現場から逃走直後の、安識の目撃に基づくものであり、その後、別の逃走方向を取ることも十分考えられるところ、警察官らの追跡方法、付近の距離関係、警察官らが被告人発見場所に到着するまでの時間等に照らすと、犯人が、いずれの方向に逃走したとしても、警察官らに発見されることなく、現場付近から逃げ切ることは十分可能な状況であったというべきである。

4 そうしてみると、この点は、被告人と本件犯行とを結び付ける根拠としては、はなはだ脆弱であるといわざるを得ない。

三  1 検察官は、被告人が警察官に発見された時、異様な汗をかいていたのは、その直前に走る等の何らかの運動をしていたと認めるのが相当であるとし、その点をとらえて、被告人と本件犯行とを結びつける一つの根拠であると主張する。

2 しかし、被告人によれば、被告人は飲酒の上、知人の家を探し歩いていたというのであるから、当時の気温、湿度に照らせば、仮に被告人が、警察官の述べるとおりに異様な発汗をしていたとしても、直ちに、その直前に運動をしていたことには結び付かないのではないかとの疑問が残る。

3 この点をもって、被告人と本件犯行を結び付けることはできない。

四  1 検察官は、被告人が職務質問を受けた際、手袋を所持していたことをもって、被告人には窃盗の意図があり、また、所持金が四、五百円にすぎず、金に窮していたことをもって、被告人に窃盗の動機があるかのような主張をする。

2 しかし、仮に被告人が犯人であり、真に窃盗の用に供するために手袋を所持していたとすれば、既に述べたように、被害者の通報により警察官が現場付近に駆け付けるであろうことを容易に想像できた被告人としては、この手袋を捨てるなど処分するのが自然であると考えられ、しかも逃走経路は、検察官が主張するとおり住宅地で、時間的余裕があったのであるから、処分も容易にできたと考えられるのであって、わざわざ犯人と疑われるものを、職務質問を受けた時点まで所持し続けていたことは、不合理、不自然であるといわざるを得ない。

3 また、所持金の点についても、これが直ちに被告人と本件犯行とを結び付けるものではないことは明らかである。

五  なお、検察官は、被告人が職務質問を受けた際、福岡で窃取されたローレックスの腕時計を所持していた点をとらえ、被告人と本件犯行を結び付ける一つの根拠とし、あるいは被告人の弁解が信用できない一事情とするかのようである。

しかし、この時計は本件とは何ら関係がなく、本件についての立証に何ら寄与するものではないことも、また、明らかである。

六  よって、被告人が職務質問を受けた当時の状況を検討しても、なお、被告人が本件の犯人であるというには、合理的な疑いが残るというべきである。

第五  類似手口の前科の存在による立証について

一  浦山供述、被告人の警察官に対する供述調書二通、検察事務官作成の前科調書によれば、被告人には、住居侵入、窃盗、常習累犯窃盗等の前科九犯があり、その犯行手口は、無施錠の窓から侵入しての現金窃盗で、侵入した室内に足跡を残さないために靴を脱いで侵入する、いわゆる脱靴盗であることが認められる。

二  検察官は、被告人の前科の犯行手口が本件犯行手口と一致する旨主張するが、その手口は住居侵入窃盗の手口として犯人を識別するに足る極めて特徴的なものであるか疑問が残る上、本件犯行直後、被告人が警察署に任意同行された際に、警察官が、被告人の同意を得た上で、その靴下を取り調べたにもかかわらず、被告人が本件犯行を行ったことを窺わせるような状況が何ら発見されなかったことも併せ考えれば、この点はむしろ被告人と犯人との同一性について疑問を抱かせさえするものといわなければならない。

第六  被告人の弁解内容についての検討

一  被告人は、職務質問を受けた当時、その場所にいたのは、それまでの約三〇分間、本荘町付近を歩いて、ボイラー関係の仕事を紹介してくれるという知人の家を探していたからである旨、その知人の氏名、住所を明らかにしないのは、知人に迷惑をかけたくないからである旨弁解する。

二  これに対し、検察官は、その知人は本件の共犯者といったものではなく刑事責任を問われる可能性は全くないのであるから、被告人が、自分が犯人でないことを証明することのできる有力な証人となりうる人物でありながらその氏名、住所を明らかにすることを拒否するのはそのような知人が存在しないことを示すものであり、また、仕事を紹介してもらう知人を訪ねるというのに、被告人が、その知人の住所、電話番号を記したメモをなくし、電話番号の照会もせず、深夜に、しかも相当量の酒を飲んでいるのは極めて不自然であり、被告人の弁解は信用できない旨主張する。

三  しかしながら、そもそも被告人には黙秘権があり、その知人の氏名等について黙秘することを被告人に不利益に扱うこと自体許されないことである上、被告人に自分のことで知人や親族に迷惑かけたくないという特に強い意識があることは、本件捜査の当初、被告人が母親は亡くなっていると偽っている点や、最近でも叔母と会ったりしていた事実を秘していた点からも窺い知ることができるのであって、まして相手方が刑務所で知り合った知人というのであれば、被告人が相手方に迷惑が及ぶことを慮ってその氏名等を秘すということは必ずしも不合理とはいえず、被告人がその氏名等を明らかにしないからといって、被告人の弁解が信用できないと断定することはできないといわざるを得ない。

また、知人宅を探し歩いていたという点も、浦山が被告人を発見した際、被告人がコーポ久駒荘というアパートの敷地から出てくるような形で歩いていたこと、右発見時に被告人が背中に汗をかいていたということ、職務質問を受けた当時被告人がその氏名を答えると共に二級ボイラー免許証を出して見せたこと、ボイラー操作用の手袋を所持していたこと等と矛盾するものではなく、被告人の弁解に著しい不合理は認めることができない。

更に、深夜、相当量の酒を飲んでいた点についても、訪ねて行こうとした知人が深夜でなければ帰宅できない事情にあり、お互いに飲酒することは知っていたから酒を飲んで訪ねていっても失礼にはならないと思っていたというのであるから、やはり、著しい不合理は認めることができない。

四  結局、職務質問を受けた当時の事情に関する被告人の弁解は、検察官が主張するように極めて不自然で信用できないとまで断定することはできず、一応合理的なものというべきである。

第七  結論

以上検討してきたとおり、検察官の挙げる被告人と本件犯行とを結び付けるいくつかの根拠は、いずれも脆弱か、全く根拠となり得ないものといわなければならない。そして、その脆弱さに照らせば、これら複数の根拠が重畳していることをもってしても、なお、被告人と本件犯行とを結び付けるものとはならないといわざるを得ない。

結局、被告人を本件犯行の犯人と断定することについては、なお、合理的な疑いが残るというべきであり、よって、本件公訴事実については犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをする。

(裁判長裁判官 赤塚健 裁判官 秋吉淳一郎 裁判官 石原寿記)

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