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静岡地方裁判所浜松支部 昭和61年(ワ)65号 判決

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

(請求の趣旨)

1  被告は原告に対し、金一億二八〇〇万円及びこれに対する昭和六〇年七月二日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

(請求の趣旨に対する答弁)

主文同旨

第二当事者の主張

(請求原因)

一  本件事故の発生

1 日時 昭和六〇年七月二日午後七時三〇分ころ

2 場所 静岡県浜松市蜆塚三丁目五番二号先路上

3 加害車両 普通乗用自動車(以下「被告車」ともいう。)

右運転車 被告

4 被害車両 普通乗用自動車(以下「原告車」ともいう。)

右運転車 原告

5 態様 右道路上において、後退した加害車両の後部と同車の後方に駐車していた原告車両の前部とが衝突した。

6 傷害等の部位・程度 頭部外傷、頸椎捻挫(外傷性頸部症候群)、腰椎捻挫(腰部椎間板損傷)、両手の痺れ、右足の関節痛、右足指の運動不能と冷感、皮膚感覚の鈍麻、難聴、視力不正常、嘔気、前頭葉機能障害による失語症、集中力・記録力の低下、吃音症状及び言語障害

二  責任原因

被告は、加害車両の保有者であり、これを自己のために運行の用に供していたものであるから、前記傷害等により原告の被つた損害について自動車損害賠償保障法(以下「自賠法」という。)三条による賠償責任を負う。

三  損害

1 治療費 金一四万七九八〇円(ただし、昭和六二年四月末までの分である。伊藤整形外科医院の治療費は、被告から既に支払を受けたのでこれを控除する。)

2 コルセツト 金一万六一〇〇円

3 入院雑費 金二万一〇〇〇円(二一日入院、一日一〇〇〇円)

4 通院等の交通費 金四一八万四四九〇円(ただし、昭和六二年四月までの損害であり、以下、8まで同様である)

5 家政婦代 金五七九万三〇〇〇円

6 家庭教師代 金一八三万円

7 雑費 金四二万四八五四円

8 長女借室賃料 金五二万円

長女純子(昭和四九年三月一六日生)は、本件事故を目撃し、その後原告の廃人に近い状態を見るに及んで甚大な精神的打撃を受け正常な生活ができなくなつた。この長女の状態を改善するには原告と隔離して生活させるほかないので、昭和六一年四月から静岡県浜松市松代町の鈴木俊男方で下宿生活(賃料月額金四万円)をさせており、同六二年五月までの借室賃料の合計は金五二万円である。

9 逸失利益 金三一九二万円

(一)(1) 原告は、本件事故当時五〇歳で東亜ガス株式会社に勤務し、課長の職にあつた者であるが、本件事故直前の給与所得は月額金二六万八〇〇〇円(年額金三二一万六〇〇〇円)であり、昭和六〇年度半期分の賞与は金四五万円(年額金九〇万円)であつた。

(2) 原告は定年(五五歳)退職をする場合には、少なくとも昭和六〇年六月当時の基本給金二三万円の四倍である金九二万円の退職金を得られることになつていたのに、本件事故により中途退職したため、退職金は金三五万円を支給されたのみである。

(3) しかして、退職金の不足額金五七万円を含めた原告の定年までの五年間の総収入を算定すると合計金二一一五万円であり、これに単式ホフマン式係数〇・八(五年後に対する係数)を乗じて損害額を算定すれば、金一六九二万円となる。

四一一万六〇〇〇円×五年+五七万円×〇・八=一六九二万円

(二) さらに、本件事故がなければ、原告は定年後なお一五年間稼働可能であり、これに単式ホフマン式係数〇、五(二〇年後に対する係数)を乗じてその原価を算出すると金一五〇〇万円である。

(三) 右によれば、原告の逸失利益の合計は金三一九二万円である。

10 慰謝料 金一億円

原告は、本件事故のため労働能力を全く喪失し、休職期間満了により昭和六一年一月一五日に勤務していた前記会社を当然退職になつた。そのため収入がなくなり、土地を売却したり親戚の援助を受けたりして生活している。そして、現在の原告は、物事を考えることがほとんどできず、数秒前のことでも自分が何をしようとしていたのかを忘れる始末であるし、目がよく見えず、物が斜めに見えたり位置がずれたりする。また、耳も聞こえず耳なりがしたり、両手が痺れ感覚がなく指が十分に動かないので軽いものでも持つのに苦労する状態である。さらに腰が重くて痛み、曲げることもできず、他人が支えてゆつくり座らせるという有様であるし、右足が突つ張り関節が痛み自力で立ったり横になつたりすることができず、特にトイレは妻初子が支えてようやく座ることができるという状態であり、自己の身辺の用事を足すことすら不可能である。しかも、原告は現在通院治療しているものの(将来も永続する)、それは一時的に苦痛を緩和する効果を有するのみであつて今後改善される見込みはなく、前記一6の傷害が後遺障害として固定しており、さらに将来別の障害が発生する可能性もあるところ、原告は通院時以外は痛みに苦しみながらほとんど寝ているだけで廃人同様の存在となつており、この状態は生涯継続するものと見込まれる。かような事情等を考慮すれば、原告の精神的苦痛を慰謝する金額としては金一億円が相当である。

11 車両破損による損害

本件原告車は、本件事故のためハンドルも曲がり、座席も歪みシヤーシー(台車)も傷み全体が潰れており、このままでは安全基準上からも好ましくないうえ、事故車は縁起が悪く見るのが嫌なので、新車にかえるための損害として金二四二万円が相当である。

四  よつて、原告は、被告に対し、自賠法三条による損害賠償請求権に基づき、右三の損害合計金一億四四八五万七四二四円の内金一億二八〇〇万円及びこれに対する本件事故発生の日である昭和六〇年七月二日から支払済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

(請求原因に対する認否及び被告の主張)

一  認否

1 請求原因一の事実のうち、1ないし5の事実は認めるが、その余の事実は知らない。

2 同二の事実のうち、被告が本件加害車両の所有者であり、これを自己のために運行の用に供していたことは認めるが、その余の事実は争う。

3 同三の事実のうち、損害の内容は知らない。損害額及び因果関係は争う。

4 同四の主張は争う。

二  被告の主張

本件事故は、被告車が約一・六メートル後退した際に衝突した事故であり、原告車の前部も被告車の後部もほとんど損傷が認められなかつたし、被告車には当時小学校六年の子供二名も乗車していたが、被告と子供らには衝突の衝撃がほとんどなく傷害を全く負わなかつた。一方、原告は、当初身体の異常について何ら訴えはなく、単に車両損害について新車の購入を求めたにすぎず、昭和六〇年七月一二日ころ、車両の修理、迷惑料の名目で金二〇万円を支払つて欲しいとの要求をしてきた。しかし、被告は、右要求を断つて、警察署に本件事故を申告し、同月一五日本件事故現場において実況見分が行われた。そして、原告は、本件事故から一三日経過後である同日以降伊藤整形外科医院へ通院するようになり、勤務先を欠勤するようになつた。かような事故発生状況、その後の経緯からして原告の頸椎捻挫・腰椎捻挫等と本件事故との間には相当因果関係がない。

第三証拠

証拠関係は、本件記録中の書証目録及び証人等目録に記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

一  請求原因一の事実中、原告の受傷の点を除き、本件事故の発生については当事者間に争いがなく、また、同二の事実中、被告が加害車両の所有者であり、自己のために運行の用に供していたものであることについても当事者間に争いがない。従つて、仮に、原告が本件事故によりその主張のとおり負傷したとすれば、被告は、原告に対し、自賠法三条に基づいて当該負傷による原告の損害を賠償する責任がある。

二  そこで、原告の受傷状況並びに本件事故と原告の当該受傷との因果関係の有無について検討を加える。

1  証人山下初子は、原告の妻であるが、本件事故後の原告の症状等について「原告は、本件事故のために本件事故当日帰宅直後から既に頭部、腰部及び頸部の痛みを訴え、夜中には、気分が悪くて嘔吐し、頸部が回らず、頭部に激痛が走り、耳鳴りがする等の諸症状があつた。そこで、原告は、早期に病院で治療を受けたかつたけれども、原告によつて保険会社や警察署に手配してもらつた後、治療を受けたいと考えていたことや原告でなければできない勤務先の仕事があつたため、昭和六〇年七月一四日まで通院しなかつた。この間、原告は、本件被害車両を自ら運転して毎朝出勤していたが、一時間程度で帰宅していた。」旨を証言し、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第三四号証の一、二にはこれに沿う同証人の陳述記載があり、原告本人も「本件事故直後から頭部や身体全体に痛みがあり、気分も悪かつた。そこで、死ぬ思いで被害車を運転して帰宅したが、本件事故による負傷のため帰宅するのに平常時の約二倍の時間を要した。」旨の供述をしている。そして、いずれも成立に争いのない甲第二六号証、第三五ないし第三七号証、第四一、第四二号証の各一、二、第二九一、第二九三、第三三三号証、乙第二一ないし第二四四号証(なお、甲第三三三号証、乙第二一ないし第二四号証いずれも原本の存在の点についても争いがない。)、いずれも弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第二号証、第八号証の一ないし三、第一〇号証、第一二号証の一ないし三、第一五号証、第二七号証の一、二、第二八、第三一、第三二、第三八、第三九、第二九二号証及び弁論の全趣旨を総合すれば、原告は、昭和六〇年七月一五日から同年九月七日まで伊藤整形外科医院に通院し、傷病名「外傷性頸部症候群(鞭打ち損傷・頸椎捻挫と同意義)・腰部椎間板損傷(腰椎捻挫と同意義)」、右頸部の腫脹、右手の痺れ、腰痛、右下肢痛が存在し、ラセーグ(+)、グラガード(+)、SLR(+)、ジヤクリンテスト(+)、スパーリンテスト(-)である等との診断を受け、レントゲン検査の結果においても、「頸椎のアライメントの乱れ・第五、第六、第七頸椎の凹の変化・ずれ、第三、第四腰椎間の不安定性・椎間板狭少が存在する。」旨の診断を受けたこと、同医院は原告に対し、頸部・腰部をカラー・腰椎用バンドでそれぞれ固定し、介達牽引、湿熱療法等を行つたこと、引き続いて、原告は、昭和六〇年九月二日以降静岡県立総合病院に入通院し(入院期間は同月一〇日から同月三〇日まで)、傷病名「頸椎捻挫・腰椎捻挫」、頸椎はジヤクリンテスト(+)、スパーリンテスト両側(+)であり、過伸展・過側展により頸椎に神経痛を誘発し、項部痛、両手の痺れ、嘔気、腰痛等があるとの診断を受け、同病院は原告に対し、頸椎・腰部の牽引、湿布鎮痛剤等による治療を行つたこと、さらに、原告は、昭和六一年八月以降総合病院聖隷三方原病院に通院し、傷病名「頭部外傷・両感音難聴・失語症状」、抑うつ状態があること、脳波、頭部CT検査に異常はないが臨床的には前頭葉機能低下があるとの診断を受け、同病院は原告に対し昭和六二年一月まで言語訓練等を行つたこと、この間、原告は、昭和六〇年一二月以降横井整形外科医院に通院し、傷病名「頸部・腰部捻挫、外傷性膝関節症等」、第五、第六、第七頸椎の圧痛があること等の診断を受け、同医院は原告に対し、理学療法・薬物療法等を行い、症状が改善したが、昭和六一年一月末ころから全般的に抑うつ感が生じ、遅くても昭和六二年九月ころまでには、脊椎の運動障害(頸部の前屈四〇度・後屈一〇度、胸腰部の前屈二〇度、後屈一〇度)があるとされたこと、右各医療機関が各傷病の原因を本件交通事故であると診断書等に記載したのはいずれも原告より本件事故の状況、すなわち、本件事故が被告車両の前部に加害車両の後部が衝突したものであつて、原告が右事故の被害者であるとの申出がなされたためであること、そして、被告は、昭和六〇年一〇月浜松簡易裁判所において、本件事故により、原告に対し、外傷性頸部症候群等の傷害を負わせたとして罰金刑の言渡を受け、同判決は確定したこと等が認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

2  しかし、原告が本件事故により右診断書記載の傷害を負つたものとすることについては、次のとおり多くの疑義が介在している。

(一)  本件事故発生の具体的態様及びその後の経過、車両の損傷状況、衝突による衝撃の程度等から見た原告の受傷可能性について

(1) まず、前記一の争いのない事実といずれも成立に争いのない甲第一、乙第一ないし第五号証、第七号証、いずれも被告本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる乙第一二号証の一ないし四、前掲証人山下初子の証言、原、被告各本人尋問の結果及び弁論の全趣旨を総合すれば、被告は、昭和六〇年七月二日午後七時三〇分ころ、静岡県浜松市蜆塚三丁目五番二号先路上(当時、小雨が降つていて路面は濡れていた。)において、加害車両(オートマチツク車)を発進させようとしたが、当該自車の直前に他車が駐車していたことから、自車のハンドルを切つて発進するのに必要な間隔を取るため、ブレーキペダルを踏んでサイドブレーキを降ろしてからシフトレバーを「P」(駐車)から「R」(後退)に切り替え、ブレーキペダルから足を漸次離しながら、後記認定のとおり時速数キロメートルの速度で漫然と後退した際、約二・三メートル後方にブレーキをかけて駐車していた被害車両(なお、原告は、シートベルトを締めずに運転席に乗車していた。)に気づかず、加害車両の後部バンパーを被害車両の前部バンパーに衝突させ、両車は接触した状態で停止したこと、その際、両車両とも外形上は明確な破損が行われなかつたうえ、被告及び加害車両に同乗していた被告の子供らには全く負傷はなく、原告も負傷した旨を特に申し立てなかつたものの、原告が、被害車両の内側やバンパーが損傷している可能性がある旨申し立てたことから、被告は、若し被害車両に損傷か所があれば修理費用を負担する旨を述べ、原告もその旨了解し各々帰宅したこと、そして、被告が原告側に対し、同月九日ころ、本件事故を警察署に申告すべき旨を申し入れたところ、原告側は、二、三日待つて欲しい旨を述べたこと、その後、被告は、原告との紛争を恐れて同月一二日、警察署に対し、本件事故を申告したところ、翌一三日、原告側は被告に対し、「首、腰が痛く、手が痺れるから医者に行かねばならない。しかし、仕事ですぐ行けないから二〇万円欲しい。」等と本件事故により負傷している旨を述べたこと、そして、同月一五日に至り、原、被告双方が立会いのうえ、警察官による実況見分が本件事故現場において行われたが、原告は、右実況見分担当警察官の勧めにより、本件事故から一三日経過した同日初めて伊藤整形外科医院において診察を受けたことが認められ、前掲証人山下初子の証言及び原告本人尋問の結果中右認定に反する部分はいずれも右認定事実に照らして措信できず、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

(2) また、いずれも成立に争いのない甲第二九、第三三二号証、いずれも証人河村成美の証言により本件事故後修理前に加害車両の全体又は一部を撮影した写真であると認められる乙第一四号証の一、二、六ないし一六、同証人の証言によりいずれも本件事故後修理前に被害車両の全体又は一部を撮影した写真であると認められる同号証の三ないし五、一七ないし三五、成立に争いのない乙第二〇号証及び弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第一九号証、右証人の証言及び弁論の全趣旨を総合すれば、一般に自動車同士の衝突事故において衝突時の速度が時速約一〇キロメートルを超過すれば、衝突による変形がバンパーの凹痕や後退に留まらず自動車本体に達し、時速が約二〇キロメートルを超過すれば、凹痕がエンジンルームに達するとされていること、しかるに、加害車両にはバンパー取付け金具であるステイに軽微な変形がある(ただし、本件事故によるものか否か不明である。)ものの、バンパー表面には本件事故による明確な衝突痕・歪みがない(なお、プラスチツク製の「テイバンパー」の場合には、製造時からバンパー表面の下側部分に一部曲がりが生じることがあり、加害車両にも同様の形跡が窺われる。)うえ、バンパーが車体本体に向けて押し込まれた形跡もなく、スティを取り付ける車体の穴部分等にも異常がないこと、他方、被害車両には、フロントバンパー左側表面の極く一部分に視認することさえ困難ともいえる極めて軽微な変形があるものの、バンパーが車体に向けて押し込まれた形跡はないし、シヨツクアブソーバー・リンホースメント(バンパーの取付け金具)・ステイ等その他の部分にも変形等の異常を見出すことは困難であり、本件事故後になされた実況見分においても外形上車両破損の痕跡等を全く窺い知ることができなかつたことが認められ、他に右認定を覆すに足る証拠はない。そして、右認定事実に前記(1)で認定した加害車両がオートマチツク車特有のクリープ現象を利用して約二・三メートル後退したに過ぎない段階で被害車両に衝突したものであることを合わせ考えると、加害車両の当該衝突時の速度は時速数キロメートルに過ぎなかつたものと認められる。

(3) そして、いずれも本件事故後に原告が本件事故当時の被害車両内における乗車姿勢を再現して撮影した写真であることについて争いのない甲第三〇号証の五ないし八、いずれも成立に争いのない乙第一〇、第一一号証、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第二五号証及び弁論の全趣旨を総合すれば、本件事故は、原告がシートベルトを装着しないで駐車中の被害車両の運転席に乗車していた際に前方から加害車両に衝突されたのであるから、被害車両は前方から後方に向かつて衝撃を受ける関係上、加害車両の速度を仮に時速約一一キロメートル(毎秒約三メートル)とし、摩擦抵抗力(体重×摩擦係数)を考慮しない場合でも、原告の上体は慣性の法則により運動を継続し、車両に加わつた衝撃力と逆方向である前方に約一六センチメートル前傾した後、身体の弾力でシートバツク側に引き戻されるという運動をとるに過ぎないこと、ましてや加害車両の実際の速度は前記認定のとおり時速数キロメートルであり、しかも、原告はヘツドレスト付きの運転席に寄りかかつて乗車していたのであるから、上体は一層前方へ傾きにくく、原告の胴体と頸部との間にいゆわる相対運動(例えば、事故の衝撃により胴体が移動しようとするにのに対し、頸部が従前の位置に停止しようとするため、胴体と頸部が相互に遠ざかろうとする力学的作用を生じることをいう。)を生じることは困難であつたから、原告の頸部に鞭打ち運動が生じたり、その頭部等がハンドル等に衝突することはなかつたことが認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

(4) さらに、前掲乙第一一、第二五号証及び弁論の全趣旨を総合すれば、加害車両の衝突時の時速を約一一キロメートルとした場合に、被害車両に生じる衝撃加速度は約〇・八二g(重力の加速度九・八メートル/S2を力学的加速度の単位である「一g」と表示する。)であり、これは、走行中の自動車が強いブレーキを踏んだ場合の衝撃加速度である約〇・五五g以上、タイヤが鳴る程度に強くブレーキを踏んだ場合(いわゆるパニツク・ブレーキ)の衝撃加速度である約〇・九g以下のものに過ぎない。しかも、本件では加害車両の衝撃速度が前記認定のとおり右時速一一キロメートルよりもはるかに遅い時速数キロメートルであつたのであるから、被害車両に生じた衝撃加速度は右〇・八二gよりもかなり下回るものであつたと認められ、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

(5) 加えて、前掲乙第一九号証によれば、車両の運転者について、衝突事故等で頸椎や腰椎に生理的運動範囲を超えて過伸展・過屈曲等を起こし、頸椎捻挫・腰椎捻挫を起こす下限の衝突瞬間の速度は毎時一五キロメートル程度であり、仮に、頸椎に加齢性変化としての変形性脊椎症等があつて頸椎捻挫等が発生し易くなつていた場合でも時速約一二ないし一三キロメートルの衝突速度が必要であり、また、衝突事故の際に頸椎・腰椎に捻挫を惹起させるためには、頭部や上半身に頸椎・腰椎を過度に伸展・屈曲させるに足る加速度がわることが絶対的必要条件であつて、頭部や上半身に加速度が加わるためには衝突後被害車両の車体が瞬間的に移動することが不可欠であるとされているところ、本件事故における加害車両の衝突速度は前記のとおり時速数キロメートルであつたうえ、被害車両は当然衝突の際、停止したままの状態でいたとしても極めて僅かでほぼ停止したままの状態(前掲乙第二号証には被害車が本件衝突後も同一の位置に停止したままの状態であつたとして図示されている。)であつたのであるから、原告の頸椎等に対し、伸展・屈曲を惹起するに足る加速度がほとんど加わつていなかつたものと認められ、これを覆すに足る証拠はない。

(6) なお、前掲乙第一〇、第一九号証及び弁論の全趣旨を総合すれば、人体には頭部を支える頸部の主な筋肉が頸骨の後方にあるため、頭部は前方に回転するよりも後方に容易に回転するが、車両の正面衝突事故の場合には、被害車両に対する加速度が車体後方に向けて加わるため、被害車両の運転者の頭部は反対方向である前方に向けて回転をし、追突事故の場合には、被害車両の車体前方に向けて加速度が加わり、その運転者の頭部は反対方向である後方に向けて回転するので、正面衝突の場合の方が追突の場合よりも頸椎捻挫等を生じにくいと考えられるところ、本件事故は原告側から見れば正面衝突事故と同視すべきものであり、被告側から見れば追突事故といえるものなのであるから、原告よりも被告側の方が頸椎捻挫等を生じ易い状態にあつたというべきであるのに、被告及び被告車に同乗していた被告の子供らは全く負傷していないことが認められ、これに反する証拠はない。

以上の認定事実を総合して考察すると、原告が本件事故により前記1の傷害を負つたとすることはまことに不自然かつ不合理であり、経験則上通常の事態としては到底肯認し難いところである。

(二)  証人山下初子及び原告本人の各供述、その他の原告側の証拠の信用性等について

(1) まず、証人山下初子は、本件被害車の損傷の程度について、「本件事故の翌日、被害車両を見ると前部のバンパーの運転席に向かつて左側に約四センチメートル程度の傷があり、何かが落ちてきた感じで凹んでいた。そして、バンパーの左右が開いており、特に向かつて右側(運転席からは左側)は開きが大きく、沈んで車体に食い込んでいた。左右のドアが締まりにくく、ハンドルも運転席から見て左側が前方に、右側が手前に曲がつていた。」等と証言し、前掲甲第二九号証(有限会社旭技術事務所作成の鑑定書中にも、「バンパー左側が変形し、二〇ミリメートル以上下がつているうえ、サイド部分が車体から離れている。取付ステイが変形し、ボルト取付穴が長穴になつているうえ、ハンドル左側が二〇ミリメートル程度下がつている。ダツシユボードが歪んでおり、ドアも歪んで透き間が生じており、ウインドガラス、フロントフエンダー・ボンネツトの歪みも生じている。運転席の位置も一五ミリメートル程度のずれを生じている。」等の記載がある。そして、いずれも弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第三四号証の一(山下初子作成の報告書)、二(同陳述書)前掲第二九二号証中にも同趣旨の記載があり、原告本人も一部これに沿う供述をしている。さらに、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第二四号証の一(トヨタオート浜松株式会社の修理概要)中にも「フロントバンパーが車両側へ全体的に入つており特に右側が左側より多めに押されている。フロントバンパーカバーの中央よりやや左側に傷(相手車両の塗装と思われるものが付着)があり、バンパー上の銀色センターモールに曲がりがある。フロントバンパーのリーンホースメントの右側が強く押されているため交換を要する。」との記載があるほか、いずれも弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第二四号証の二(同社の「御見積書」)、第二五号証(静岡日産自動車株式会社浜松営業所サービス部の「御見積書」)中にも同趣旨の記載がある。しかしながら、右甲号各証中に記載されている本件被害車両の損傷は、前記認定の本件事故の態様・衝撃の程度等に照らし、本件事故によつて生じたものとは到底肯認し難いのみならず、前掲甲第二九及び第三三二号証添付の写真、乙第一四号証の三ないし五、一七ないし三五を仔細に精査検討しても、特に本件事故によつて生じたものと認められる被害車両の損傷を明確に看取することは困難である。しかも、前掲証人河村成美の証言によれば、前記「長穴」は製造当時からもともと当該形状になつていたものであるし、同人が、昭和六〇年七月一五日、本件事故現場において原告と被告各本人が、昭和六一年八月一日、右静岡日産の駐車場において原告の妻である山下初子と被告本人がいずれも立ち会い、修理未了の被害車両を分解する等して被害調査をしたけれども、前記「修理概要・御見積書」記載の損傷を視認することができなかつたのみでなく、同人が前記見積書の作成経緯について右修理会社に確認したところ、右甲第二四号証の二、第二五号証は、いずれも被害車両の部品をあえて取り替える必要はないのに、その取替を要する旨の記載がなされていることが判明したというのであるから、右見積書中の被害車両の修理か所・調整か所等に関する記載部分の正確性等については疑問を免れないところである。したがつて、前掲証人山下初子の証言及びこれに沿う、前掲甲第二四号証の一、二、第二五、第二九号証、第三四号証の一、二、第二九二号証の記載内容はいずれもにわかに措信することができない。

(2) また、前掲甲第二九号証中には、本件事故の態様・衝撃の程度に関し、〈1〉衝突時の加害車両の速度が時速約四八キロメートルであつたこと、〈2〉加害車両と被害車両の車間距離は約四メートルから五メートルであつたこと、〈3〉原告は衝突時前屈ぎみの姿勢で待機していたので、前屈・後屈転倒を生じ易い姿勢になつていたこと、〈4〉原告の上体が衝突の衝撃で前屈して被害車両のハンドル部分及びダツシユボードから突出ているメーター部分に激突して前頭部を強打した際、ハンドル左側を約二センチメートル程度押し込むようにして頭部が回転し、さらに反作用で上体が運転席と助手席の間にはまり込んだこと等の記載がある。そして、いずれも本件事故のため原告が被害車両のハンドルに頭部を激突させた際の状況を再現した写真であることについて争いのない甲第三〇号証の九、一〇には右記載に沿う状況が再現されており、前掲乙第四号証にも右記載に一部沿う原告の陳述記載があつて、証人山下初子及び原告本人も一部右記載に沿う供述をしている。しかし、加害車両の速度が右〈1〉のとおりである場合には、前記認定のとおり両車両の損傷が車体にまで及ぶが、このような損傷が両車両に窺えないことは明白であるし、成立に争いのない乙第一三号証によれば、時速四八キロメートルの高速を五メートルの走行によつて生じるためには、一・八gという加速度を出さなければならないが、前輪駆動車である被告車の場合には約〇・五g程度の加速度が限界であるから、その約三・六倍の加速度を生じさせることは到底不可能である。また、右〈2〉及び〈3〉についても前掲乙第二号証、甲第三〇号証の五ないし八によつて認められる前記認定の客観的事実に反している。さらに、右〈4〉についても、前記認定の本件事故による衝撃の程度・態様からは到底考え難いし、前掲乙第一三号証によれば、ダミーを使用した衝突実験において、頭部が前窓に衝突するほど激しく衝突した場合でも、上体がシートバツクを押し曲げる程度にまで激しく跳ね返されることはないうえ、通常はダミーがシートバツクの位置にまで戻ることがないとされているのみならず、仮に原告の前頭部がハンドル等に激突したのであれば、前頭部・顔面部に相当の傷害を負うというのが通常の事態であるのに、後記(三)のとおり原告が本件事故により頭部等を負傷したことは措信できないので、原告がハンドル左側を約二センチメートルも押し込むようにして激突したこと等を到底認めることはできない。したがつて、甲第二九号証及びこれに沿う前掲各供述はいずれもにわかに措信することができない。

(3) 原告本人は、前記のとおり、「本件事故により頭部、身体全体を負傷し、本件事故直後から既に痛みがあつたため、平常時の約二倍の時間をかけて被害車両を運転し必死の思いで帰宅した。」旨を供述しているが、他方、前掲乙第四号証(原告の司法巡査に対する供述調書)中には、本件事故後「首が少しおかしい程度だつたので、後日話し合えば良いと軽く考えていた。」旨の陳述記載があり、その供述等(原告本人尋問の結果と供述調書)は身体傷害という重要な点に関して一貫性がなく、不自然かつ不合理であるから、にわかに措信することができない。また、前掲証人山下初子の証言についても、仮に、同証言のとおり「原告は、本件事故当日から前記自覚症状が強度にあつて様態が悪化していた。」というのであれば、原告は保険会社等との交渉を待つまでもなく、本件事故後速やかに専門医の診察を受けるというのが通常の事態の推移である。この点について同証人は、「原告でなければできない勤務先の仕事があつたため、昭和六〇年七月一五日まで通院しなかつた。」旨供述しているけれども、他方において「原告は本件事故後も被害車両を自ら運転して通勤し、毎朝一時間程度で退社して帰宅していた。」旨供述しており、仮にそのとおりであれば容易に病院で診察を受けることが可能であつたということになる。しかるに、前記のとおり原告が本件事故から一三日も経過した昭和六〇年七月一五日まで全く通院していないのである。かような点に照らすと、同証人の証言は、曖昧かつ不自然であるからにわかに措信することができない。したがつて、原告が本件事故により負傷した旨の右各供述に沿う前記各陳述書の記載もにわかに措信することができない。

(三)  レントゲン写真・診断書等の記載について

いずれも弁論の全趣旨により本件事故後伊藤整形外科医院において原告の頸椎・腰椎を撮影したレントゲン写真であると認められる乙第一六号証の一ないし八、いずれも弁論の全趣旨により本件事故後静岡県立総合病院において原告の頸椎を撮影したレントゲン写真であると認められる乙第一七号証の一、一前掲乙第一九号証及び弁論の全趣旨を総合すれば、右伊藤整形外科医院のレントゲン写真では、これを全体として見ると第六、第七頸椎間の前縁部で小さな前縦靱帯の化骨があるが、特に異常とする程の所見はなく、第五なしい第七頸椎の各位置も正常範囲に属するものであり、腰椎においても第三、第四腰椎がやや狭くなつている感じを受けるが、腰椎の生理的前湾の範囲を出ないもので、他に他覚的な異常は見られず、変形性脊椎症等の所見もないし、静岡県立総合病院のレントゲン写真においても全く異常所見を窺うことはできないものと認められる。しかも、仮に、前掲伊藤整形外科医院の診断書等記載のとおりレントゲン写真中に腰椎・頸椎の異常が見られたとしても、前掲甲第四二号証の二によれば、当該所見は本件交通事故による外傷の可能性はあるが、既往症の可能性も否定できず、いずれによるものかの判定は困難であるとされているのである。なお、原告の頭部外傷・外傷性膝関節症の点については、本件事故に近接した時期に受診した前記伊藤整形外科医院及び静岡県立総合病院整形外科の各診断書によつても右所見を窺うことはできないのみならず、本件事故直後である原告の昭和六〇年七月一八日付司法巡査に対する供述調書(前掲乙第四号証)においても、原告は頸部と腰部に関しては言及しているのに、右各外傷についてはいずれも全く言及していないこと等に照らすと、右頭部外傷等の記載もにわかに措信し難い。しかして、右認定の事情に前記認定の本件事故の態様・衝撃等を合わせて考えると、レントゲン写真や診断書等の記載から、直ちに前記記載の症状が原告にあり、かつ、それらが本件事故によつて生じたものであると即断することはできない。

3  以上の次第であるから、前記二の1に掲記した各証拠をもつてしては、本件事故と原告の負つた傷害との間に原告主張のような因果関係の存在を証するに足りないといわねばならない(結局、本件事故が原告の精神面に微妙に影響して原告の愁訴が発現した可能性を考える余地は否定し難いところであるがこれだけの理由をもつて未だ法律上の因果関係があるというわけにはいかない。)し、他に、原告主張の右因果関係を証するに足る証拠はない。

4  なお、原告は、本件事故による車両破損による損害(物損)として新車購入相当損害金を主張しているが、被害車両の損傷部位は、前記2の(一)の(2)で認定したとおり、フロントバンパー左側表面の極く一部分に形成された軽微な衝突痕にすぎず、被害車両が買替を要する程度に損傷していることを認めるに足る証拠はない。

三  よつて、原告の被告に対する本訴請求はその余の点について判断するまでもなく理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 川瀬勝一 安倍晴彦 市村弘)

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